第3章 知らない顔なんて出来ない
時計の針が19:00を指すころ、オフィスの空気もようやく静けさを取り戻し始めていた。
ミクは誰にも気づかれないように、そっと席を立った。
スマホの通知はミュートにし、イヤフォンも付けず早足で地下鉄へと向かう。
(――今日はもう、無理……顔なんて、合わせられない……。)
昨夜のこと。
今日のメッセージ。
彼の指先、低く笑う声、すべてが身体の奥に焼き付いて離れなかった。
やっとのことで自宅のアパートにたどり着き、エレベーターに乗らず階段を選ぶ。
1階、2階、3階……もうすぐ――
甚「……ミク。」
声が落ちてきたのは、頭上からだった。
ドキンと心臓が跳ねる。
ゆっくりと見上げると、4階の踊り場に伏黒甚爾が腕を組んで立っていた。
黒のジャケット、煙草の煙。
その瞳は、すでに逃げ場を塞ぐように真っ直ぐに彼女を射抜いていた。
「……っ、どうして……。」
甚「は? そりゃ“帰ってくるだろうな”って思ったからだよ。……そんな顔して逃げたって、すぐわかんだよ。」
ゆっくりと彼は階段を下りてくる。
ミクは思わず1歩、後ずさった。
「……今日は……無理。お願い、帰って……。」
甚「無理なのは、俺の方なんだけど。」
声が低く落ちた瞬間、彼の腕がミクの手首を掴んだ。
強引に手を引いて歩き出しミクの隣、伏黒甚爾の部屋のドアが開け放たれる。
「……っ、やめて……ほんとに……っ。」
甚「やめるわけねぇだろ。あんなメール送って、何も感じてねぇわけないよな?」
ドアが閉められた途端、世界はふたりきりになる。
ミクの背は壁に押しつけられ、甚爾の手が彼女の顎を持ち上げる。
甚「目ぇ、逸らすな。逃げても、もう遅ぇよ。」
言葉と共に、その指先が彼女の頬をなぞり耳元へ、そして喉元のスカーフへと移動していく――
まるで昨夜の続きをなぞるように。
すべてを思い出させるように。
――熱が、また灯る。