第13章 やっと
甚「そうか。」
それだけ言って甚爾はポケットに手を突っ込んだまま、じっと彼女を見つめた。
甚「着替えろ。飯でも食いに行くぞ。」
「……え?」
甚「近くに、旨い鰻屋あるんだと。知り合いに聞いた。」
その言い方が、あまりにさりげなくて、あまりに自然で。
ミクの心臓は、たったひと言の誘いに妙な早鐘を打っていた。
「……私、寝起きで…化粧もしてないし……。」
甚「良いよ、別に。そんな顔でも。」
「……“でも”ってなによ。」
小さく抗議するような言葉にも、甚爾はうっすらと笑みを浮かべるだけだった。
甚「早くしろ。腹減った。」
そう言い残して階段を降りていく後ろ姿は、まるで待つ気なんてないかのようで。
ミクはドアをそっと閉じると、深く息をついた。
(……なんなの、ほんとに……。)
なのに気づけば鏡の前で髪を整え、淡いリップをひく自分がいた。
ドキドキと早まる鼓動をなだめながらワンピースを選ぶ指が、どこか浮ついている。
心は、まだ曖昧なまま。
だけど――
その1歩は、もう動き出していた。
休日の午後、まだ陽が高い時間――
甚爾の後ろを少しだけ距離をとって歩く彼女は、時折見える彼の横顔に何度も視線を奪われていた。
「……暑いね。」
ようやく出た言葉に、甚爾は首を傾けるだけで応えた。
甚「まあな。すぐ着く。」
それだけの会話なのに、どこかくすぐったい。
彼と、こうして昼間に歩いているという事実が、どうにも落ち着かなかった。
店に着き奥の静かな席に通されると甚爾は慣れたように注文を済ませ、彼女の前に冷たいお茶を滑らせる。
「……ありがとう。」
甚「無理して来たんだろ。眠そうな顔してた。」
「……え? そんな顔してた?」