第6章 また明日
ふと、先生の呼吸が、すぅ……と静かに整い始めた。
それだけで、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
生きてる。まだ、ちゃんと――ここに、いる。
重たく閉ざされていたまぶたが、ゆっくりと、ほんのわずかに開く。
その奥にある黒曜石のような瞳が、ぼんやりと私を映した。
「……星野……?」
掠れた、けれど確かに届いた声。
私の名前を――呼んだ。
その瞬間、胸がぎゅっと締めつけられるような、でもどこか、溶けてしまいそうなくらいあたたかい気持ちがあふれ出した。
『……先生……』
言葉はそれだけだった。
それ以上、何も言えなかった。
涙がこぼれる一歩手前で、私はそっと目を閉じた。
(よかった……守れた……)
それだけで、もう、充分だった。
まるでその安心に応えるように、
揺れていた蒼の翼が、音もなく、羽ばたきをやめた。
まるで「役目は終わった」とでも言うように、私の背から、そっと姿を消していく。
そして同時に、身体の奥からすうっと力が抜けていった。
足の感覚がなくなっていくのに気づいたとき、
私はそのまま、静かに膝を折った。
何も支えがないみたいに、からだがゆっくりと沈んでいく。
すとん、と。
地面に触れたその瞬間、まるで深い水のなかに落ちていくような感覚に包まれる。
「あっ、想花ちゃん!?」
「……おい、うそだろ!?星野!!」
誰かの叫び声が、震えるように耳の奥で響く。
何人かの足音が、焦るように近づいてくる。
でもその音も、声も、全部が遠ざかっていった。
……なのに、不思議と、怖くなかった。
体は冷えていくのに、心だけがあたたかくて。
世界が静かになっていくそのなかで、私はただ、願っていた。
(先生が、助かった。守れた。それだけで、私は……)
ゆっくりと閉じていく意識のなか、
私はひとつの光を、確かに胸に抱いていた。
あのとき見た、崩れた瓦礫の中で動かなくなった人の手。
届かなかった声。繋げなかった命。
過去のすべてが、今、この瞬間に塗り替えられていく。
やっと、あのとき救えなかったものに、
小さく、そっと手が届いた気がしたんだ。
(……ありがとう、先生)
最後にそう呟いたかどうかは、もう定かじゃない。
だけどたしかに、私の心の奥には――
あたたかい光が、静かに灯っていた。