第23章 空白の檻
想花side
どれほどの時が経ったのだろう。
光も音もない、底のない暗闇。
感覚という感覚は溶け落ち、残っているのは、ただ、浮かぶような意識の断片だけ。
かつて何を想い、何を信じていたのか──
名前さえ、遠く霞んでしまった。
声が聞こえる気がした。
誰かが、自分を呼んでいるような気がした。
でもその声すら、現実か幻想か、もう判別がつかない。
“私”は、誰だった?
なぜ、こんなにも苦しくて、冷たいのに、まだ意識は消えずにいるのだろう。
……それでも。
その深淵の中、ふいに浮かぶ。
ひだまりのような光景。
優しい笑い声。誰かが笑ってくれた気がする。
──縁側で、並んで座っていた背中。
──制服を着て、ざわつく教室。
──体育館の隅で、ふいに差し出された手。
──お昼の時間、誰かの隣で笑っていた。
──帰り道に、誰かが傘を差し出してくれた。
名前は、思い出せない。
でも、顔が浮かぶ。あの時、あの瞬間にいた“誰かたち”の顔が。
それは、優しさ。
それは、温もり。
忘れていたはずの感情が、まだ心の奥に棲んでいる。
──そして。
一人の、誰よりも鮮明な記憶。
暖かな腕の中で、泣いた夜。
「もう大丈夫だ」と囁く声。
触れるだけで安心した、あの手。
泣きそうになる。思い出すほど、胸が痛くて、でも──あたたかい。
ふいに、何かが胸の奥で弾けた。
見えないはずの唇が、わずかに動く。
声にならないほどかすれた、想いのかけらが、静かにこぼれた。
『……想花……』
それが、私の名前。
どれだけ支配され、記憶が薄れようとも。
自分で名乗ったその一言が、胸を震わせる。
──私は、まだ、“私”だ。
──私は、まだ、生きている。
消えかけていた灯火が、灰の中でふつふつと熱を宿す。
“願い”という名の炎が、胸の奥でかすかに瞬いた。
そしてその時。
モニターの向こうで、誰にも気づかれないほどの、わずかな異変が起きた。
脳波。微細な乱れ。個性活動域、0.2%の変動。
空間の輪郭が、一瞬だけ──微かに、揺れた。