第15章 忍び寄る影
氷の壁は、ただそこにあった。
淡く透き通るような青が、倉庫の空気をまっすぐ裂いている。
それは冷たさなんかじゃない。
ただ、強く静かな“意志”のように見えた。
死柄木の手が、それに触れる。
崩壊の力を宿したその指先が、氷に沈んで──何も、起こらない。
壊れなかった。
崩れなかった。
「……てめぇ、なんでだよ」
ぼそりと落ちた声は、怒っているようで、どこか迷っているようにも聞こえた。
わたしはそのまま、氷の向こうへ歩き出す。
何も言わずに。振り返らずに。
血の気配が濃い。
わたしの足音が、濡れた床に吸い込まれていく。
Mr.コンプレスが、そこにいた。
蹲ったまま、肩を抑えている。
左腕の途中で、すべてがなくなっていた。
肉も、骨も、皮膚も、もうない。
ただ血が流れて、濃い色を床へ落としている。
それでも──彼は、生きていた。
苦しそうに、息を吐いていた。
わたしは、そっと膝をつく。
言葉はいらなかった。
何も聞かず、何も問わず、
わたしはただ、手を伸ばす。
傷口に、そっと指先を添える。
……冷たくも、温かくもなかった。
けれどその下にあるものが、ふわりと心にふれてきた。
戻って。
その想いは、声にはならない。
けれど確かに、わたしの内側から、世界に向かって滲み出していく。
光も、音もない。
けれど──手のひらから零れていくように、
何かが静かに空気に舞っていった。
微粒子のような“なにか”が、血の色にそっと重なって、
失われた肉と骨を、元のかたちに戻していく。
まるで、“なかったこと”にするように。
「……なんで……助けた……」
息の混じった声がこぼれた。
その瞳に宿っていたのは、痛みじゃなかった。
迷いと、驚き。
そして──理解できない、何か。
けれど、わたしは何も言わなかった。
ただ立ち上がる。
何も求めずに、何も背負わせずに。
そのとき、背後からもうひとつ声が落ちた。
「……なぜ、俺を守った」
治崎だった。
低く、冷たく、静かな声。
けれどその中に──微かに揺れるものがあった。
たぶん、わたしにしかわからないような、微かな“綻び”。
でも、やっぱりわたしは何も言わなかった。
理由なんて、ないのかもしれない。
ただ、わたしは……そうしたかったから。
それだけだった。