第5章 「静けさの中で、滲む思いと触れそうな距離」
部屋に戻ると、センラはまだソファに腰をかけていた。 目を閉じているけれど、呼吸は浅く、眠っているようには見えない。私はそっと部屋へ戻り、音を立てぬように彼の隣に戻る。
「……戻ったんか」
そう言ったセンラはゆっくり目を開けた。
「はい。……少し、外の空気を吸ってました」
「雨に濡れなかった?暑かったんちゃう?」
「……少しだけ。でも、気持ちよかったです」
それきり、ふたりとも黙ったまま。 ソファのクッションが、重なった体温でじんわりと暖かい。
不意に、センラが手を動かす。 私の手のそば、ほんの数センチの距離で、彼の指先が止まった。
触れるか触れないか、ぎりぎりの距離。
私は息を止めた。
けれど、彼の指先はそれ以上近づいてこなかった。
──それでも、心はふれているような気がした。
静かな夜が、雨の音とふたりの呼吸だけで埋まっていく。
「……今日、楽しかったな」
ぽつりと、センラが呟く。
「……私もです」
私は、まっすぐに答えた。
センラはその声を聞いて、私の方を向き、まるで何かを確認するように目を細めて微笑んだ。
「……そっか」
その言葉に、胸がじんわりと温かくなった。
センラの視線がふと、私の目元から唇へ、そして喉元にかけてゆっくりと落ちていく。
私も思わず息を呑んでしまい、彼の顔から目線をそらせない。
指先が、また少しだけ動いた。 今度は、そっと私の手の甲に触れる。ほんの少しの接触。けれど、その温度に心臓が跳ねた。
「……」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がくすぐったくなる。
何も始まっていない。でも、確かに何かが生まれようとしている。
ふたりの間にある沈黙が、心地よく染み込んでいく。
それはまるで、夜の静寂がふたりの距離を、そっと肯定してくれているかのようだった。