第8章 再構成された信仰仮説
書斎の灯を落としたまま、私は彼女の手帳をめくり続けていた。
蝋燭の火がかすかに揺れ、陰影が頁を横切る。その影さえも、彼女がこの空間にまだ留まっているように思えた。
いや、留まっているのではない。彼女は、確かにここにいた。時間をかけて、丁寧に、静かに。
指先で頁をなぞると、微かに薬草の乾いた香りが立ちのぼる。記された文字には、あの声が宿っていた。
診療の合間に彼女が記した言葉は、単なる記録ではなかった。日々の些細な出来事の中に、私という存在が、息づいていた。
初めのうちは、「厄介な患者」「不機嫌な男」「無愛想で高慢」と、率直すぎる描写に思わず吹き出しそうになった。あまりに的確で、否定できる要素がない。
それでも、そんな彼女の正直さに、私はどこか安心している自分を見つけた。
頁をめくるたびに、彼女の筆致は微かに、しかし確かに変わっていった。
《今日は彼の目に映る世界の話を聞いた。彼の言葉はとても冷たいけれど、その奥にある火種のようなものに、私は感動していた》
《診療室での口論。私は感情的になりすぎた。でも彼が放った“他者は必ず裏切る”という言葉が、あまりにも悲しかった》
《星を見た夜。彼と、アストロラーベを囲んで手を繋いだ。神様、私は罰を受けるでしょうか。でも、もうこの手を離せないようです》
《彼が本を読む姿が好き。ものを書く姿が好き。難しい顔をして眉間に皺を寄せるその横顔を、何度も目で追ってしまう。神様、私はやっぱり、恋をしてしまったのだと思います》
《修道院を逃げ出したこと、命を削ってまで、なぜそんなことが出来たのか、自分でも説明できずにいた。――けれど最近思う。一瞬の光や感動を守るためなら、私は死ねるのだと思う。それは寿命の長さより、代えがたいことだと》
《いよいよ、罰を受けるときがきたのかもしれません。もし彼が私のことを忘れても、それでもいいと思える日がきた。――そう書こうとして、ペンが止まった。本当は、忘れないでいてほしい》
《彼の未来に、私の影が少しでも映っていればと願う。叶わなくても、私が祈ったことが、彼の歩みのなかでひとしずくの灯になればと》