• テキストサイズ

軌道逸脱と感情の干渉について【チ。/バデーニ】

第7章 不在の証明



 私は彼女の頬を包む。指先に触れた温もりが、胸の奥に沁みてくる。彼女の瞳がまっすぐこちらを見ていた。

「……言っておくけど」
「ん?」
「今さらになって“やっぱり神に仕えます”って言われたら、ちょっと泣くかもしれない」
「バデーニさんが泣くところ……ぜひ見てみたいですね」
 
 そう言って、彼女はくすりと笑った。

 そして、その笑みが消える前に、私は唇を重ねた。柔らかく、慎重に。彼女の指が私の背に回る。引き寄せられ、互いの熱がじわりと重なっていく。

「怖くはないか?」
「……怖いです。怖いけれど、あなたが隣にいてくれるから、進めるんです」

 私の胸に彼女の言葉が落ちて、波紋のように広がっていく。寝台に彼女を導く。衣擦れの音も、吐息も、すべてが静かな部屋に満ちていく。

 私は彼女の身体に触れながら、丁寧に祈るようにその線をなぞった。肌が、熱をもって応える。触れるたび、彼女が私の名を高く呼ぶ。その声が、心に刻まれて離れない。

「こんなふうに君に触れるのが……これが最後かもしれないと思うと、怖くなる」
「最後にするつもりなんて、ありません。私が怒ったら、けっこう怖いんですからね?」
「……それは確かに、説得力があるな」

 私は笑いながら、もう一度唇を重ねた。
 彼女のすべてを焼きつけるように、深く、重ねていく。
 何度も名を呼び、何度も確かめる。
 まるで永遠をこの掌で掬おうとするかのように。


 夜が明ける直前、私は小さな馬車の影に彼女を導いた。ふたりの別れが、静かに訪れる。

「……行って」

 私の声がかすかに震える。彼女は頷いた――けれど、扉に手をかけたあと、一歩だけ戻ってきた。

「必ず、待っています。あなたが遅れたら、ほんとうに怒りますから」
「それは困るな。……じゃあ、急ごう」

 彼女がふっと笑った。そして扉を閉じる。馬車が静かに動き出す。見えなくなっても、音が消えるまで、私は動けなかった。

 静寂だけが残った。

 けれど、その静けさの底に、確かな音が残っていた――彼女が、そこにいたという証のように。

/ 84ページ  
スマホ、携帯も対応しています
当サイトの夢小説は、お手元のスマートフォンや携帯電話でも読むことが可能です。
アドレスはそのまま

http://dream-novel.jp

スマホ、携帯も対応しています!QRコード

©dream-novel.jp