第6章 必要十分条件としての君
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その夜、部屋に戻った私は、椅子に腰を下ろすと、まるで自分の体の中から音が消えたような静寂に包まれた。蝋燭の小さな炎だけが、時おり揺れて、壁に長い影を落としている。
――つまり、私と結婚してほしいのです。
さっき聞いたばかりの言葉が、頭の中でゆっくりと反芻される。
求婚にしてはあまりに理詰めで、けれど彼らしいといえば彼らしい。どこまでも現実的で、どこまでも誠実な申し出だった。
私は、何を捨てることになるのだろう。
それを一つずつ数えていく。
この小さな診療所。乾燥棚に並ぶ薬草の束。村人たちの穏やかな顔。子どもたちの鼻風邪。咳の調合薬。採取の記録帳。長年かけて組み立ててきた、自分だけの知識の体系。
――それらすべてを、手放す。
それでも、彼についていくと決められるだろうか。
私は、彼の世界の中で、再び「ただの女」になることを恐れているのではないか。
その考えがよぎったとき、不意に胸がつんと痛んだ。
自分の知識や経験が、彼のそばでは役に立たないかもしれない。彼のように壮大な思考を持ちえない私が、何の肩書きもなく彼の隣に立つ――それは私にとって、ある種の「喪失」なのかもしれなかった。
だけど。
机の端に、彼が置いていった古い観測記録の紙片があった。そこには、私の書いた小さな走り書きも混じっていた。『この星の名前は?』と、好奇心にまかせて書いたものだった。
その問いに、彼は、きちんと返事を書き込んでくれていた。
『名はないが、時に"旅人の星"と呼ばれる』
その文字を指でなぞりながら、私はふっと笑ってしまった。
――そうだ。
私は彼と出会ってから、ようやく「誰かの世界の一部」になることを怖れなくなったのだ。
かつて修道院で過ごしていたころ。私は、孤独という重さに慣れすぎていて、人と深く関わることを自分に禁じていた。
でも、彼の隣にいるようになってから、笑ったり、叱ったり、見守ったり、時に皮肉を言い合ったりしながら、私はようやく「生きている」と感じたのだ。
知識も、大事だ。研究も、私の誇りだ。
けれど、もっと深いところにある願いは――あの人と、これからをともに生きることだった。
決意が形を取るのに、時間はかからなかった。