• テキストサイズ

軌道逸脱と感情の干渉について【チ。/バデーニ】

第4章 観測されざる傷


 
 ◇◇◇◇

 
  患者様を見送ったあとの診療室は、ひどく静かだった。
 窓辺に射し込む午後の光が、さっきまで賑わっていた気配を嘘のように消している。私は背を壁に預け、静かに深く息を吐いた。

 ──どうして、あんなふうに言ってしまったのだろう。

 バデーニさんが扉を出て行ったときの顔が、何度も胸の奥に刺さるように思い出された。怒っていた。それ以上に、傷ついた顔だった。

  けれど私は、彼が最初からずっと誰にも心を許していないことを、とうに気づいていたはずだった。

 研究の話をするとき、彼はいつも「私は」「私の数式では」と自分のことばかりだった。協力者の名が出てくることなど一度もなかった。 誰かの助けを借りたくないのだと、口にせずとも伝わってきた。最初はそれがただの傲慢に見えていたけれど──

 彼が私に、人を殺したことを告白した日。
 「軽蔑しましたか」と尋ね、私に受け入れられたときの、安堵した表情をふと思い出した。
 あの言葉の裏には、他人に裏切られた記憶があった。自分の才能を奪われ、大切な人を自ら手にかけ、すべてを失った記憶が。

  あれは、普段高慢な彼が、最初で最後に見せた自分自身への蔑みだったのだ。

 私はそれでも彼を、すべて受け止めたいと思った。
 なのに、今日の私の言葉は、彼を拒絶したに等しかったのかもしれない──その思いが、後から後から胸を締めつけた。

/ 84ページ  
スマホ、携帯も対応しています
当サイトの夢小説は、お手元のスマートフォンや携帯電話でも読むことが可能です。
アドレスはそのまま

http://dream-novel.jp

スマホ、携帯も対応しています!QRコード

©dream-novel.jp