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軌道逸脱と感情の干渉について【チ。/バデーニ】

第1章 因果律の彼方に



◇◇◇

陶器の小さな器に刻んだ薬草を加え、テレピン油で静かに煮詰めていると、ふと昨日のことを思い出した。

「そういえば……昨日お見えになるはずだった患者様、いらっしゃらなかったな」

私は修道女として入院してから、もう七年が経つ。ありがたいことに、診療所長から腕を見込まれ、簡単な処置なら一人で任されるようになった。専用の診療室まで与えられたのは半年前のこと。

意気揚々と引き受けたものの──残念ながら、この『J診療室』には月に数人しか患者が訪れなかった。なにしろ、Aから数えて十番目の部屋。端の小部屋に過ぎないのだから、無理もない。

やがて私は、空いた時間に薬草の研究に没頭するようになった。気づけば、その研究こそが日々の中心になりつつあったけれど、本業を忘れてはいけないと、心のどこかに小さな焦りもあった。

机の上のボードから昨日の紹介状を剥がし、もう一度読み返す。 

「『バデーニさん、二十歳男性。決闘による複数の切り傷あり』」

決闘。つまり、きっと上流階級の方なのだろう。腕に自信のある、気骨のある方なのかな……。

薬草の煮える静かな音だけが、ひとりきりの診療室に響く。もう現れないかもしれない患者様に、ほんの少し思いを馳せながら、煮詰めたテレピン油を冷まし、塩水を加えて速やかに混ぜる。

そのとき、扉がノックされた。きっと週に一度の写本の依頼に違いない。あれも私の大事な仕事のひとつだった。
「はーい」と応じて小走りに戸口へ向かう。扉を開けたその瞬間、私は息を呑んだ。

冬の空を思わせる灰色の瞳が、まっすぐ私を見下ろしていた。顔には生々しい傷跡。無造作に伸ばされた金の髪。けれどそのどれもが、整った顔立ちと合わさって、不思議な神秘性を纏わせていた。
──バデーニさん。
紹介状の印象とは違っていたけれど、すぐにそうだと分かった。 

「バ、バデーニさんですね……! どうぞ、お入りください」

声が震えたのは、恐れからでもあり、そして──不覚にも、美しいと感じてしまったからだった。
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