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軌道逸脱と感情の干渉について【チ。/バデーニ】

第3章 証拠なき契約



 言葉は、もう要らなかった。
 私は一歩、彼のもとへと歩みを進めた。
 それが自分の意志だったのか、何かに背中を押されたのかは分からない。けれどその一歩に、全身の想いが詰まっていた。

 すると、彼もまた、こちらへと歩みを始めた。
 まるで吸い寄せられるように。
 一歩、また一歩。
 その間にある空気が、夜の冷気を溶かしていくようだった。

 駆け寄るようにして、彼の腕の中に飛び込んだ。
 何も言わなくても、彼の手が私の背にまわった。
 ただ強く、けれど確かに、抱きしめられた。

「……あなたを、失うのが怖かった」

 その言葉が、どちらからだったのかも、もう分からなかった。
 彼もまた、同じように震えていた気がする。
 ただ、互いのぬくもりを確かめ合うように、しばらく言葉もなく、夜の静寂の中に身を寄せ合った。
 
 彼の腕が私の背にまわされるたびに、胸の奥がじんと痛んだ。
 その手は、優しいのに抗いがたく、迷いながらも深く抱き寄せるような、そんな力があった。
 ときおり肩越しに伝わってくる彼の鼓動と、わずかに熱を帯びた体温に、私は無言の告白を聞いた気がした。

 やがて、額をわずかに離し、そっと目が合った。
 見つめ返すまでもなく、その眼差しが言葉のかわりだった。
 私は、何も問わず、ただ導かれるように瞼を閉じた。

 唇が触れ合ったとき、彼の腕がわずかにきつくなった。
 彼の唇はほんのすこし震えていて、そこに押し殺された想いの重さがあった。
 その熱、その躊躇、その切実さ――
 すべてが、ひとつの感情として、確かに伝わってきた。
 彼の息遣いが、唇の隙間から微かに混じって、私の呼吸と重なっていく。

 時間も、言葉も、過去も未来も、もうなかった。
 
 それは恋というにはあまりにも切実で、
 祈りというにはあまりにも人間的だった。

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