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軌道逸脱と感情の干渉について【チ。/バデーニ】

第3章 証拠なき契約



 *
 
 今夜は、新月。

 空には月がない。そのかわり、星々の光がどこまでも透きとおるように冴え渡っていた。
 空気は冷たく、肌を刺すようだったけれど、それすらも心地よかった。痛みがあるぶんだけ、現実の輪郭がはっきりとした。
 私は肩に外套を羽織り、そっと扉を閉めた。

 誰にも気づかれないよう、足音を忍ばせて回廊を抜ける。
 夜更けの修道院は、まるで眠っているみたいに静かだった。
 風に揺れる枝の音、どこか遠くで鳴く夜鳥の声、そして、石畳を踏みしめる自分の足音――それらだけが、かすかに世界と私を繋いでいた。

 丘の上までの道は、私の身体にすっかり馴染んでいた。
 あの夜から、何度も心の中で通った道だった。
 夢の中でも、白昼夢の中でも、何度も彼と手を取り合ったあの場所へ、心だけは戻っていた。

 けれど今夜は、本当にその場所を目指していた。
 胸の内で繰り返す問いは一つだけ。

 ――彼は、そこにいるだろうか?

 ただ、それだけだった。
 彼に会いたい。
 たった一言でいい。話がしたかった。
 けれどそれは、祈りにも似た願いだった。もし彼がそこにいなかったら、それで終わってしまう気がして。

 息をひとつ吐きながら、私はアストロラーベを両手で抱き直した。
 あの夜、彼が「これは予備です」と言って手渡してくれた小さな真鍮の天文器。
 手にしているだけで、心が少しだけ強くなった気がした。

 坂道を上るたびに、心臓の鼓動が強くなっていく。
 冷えきった空気が肺にしみて、肩で息をしていた。
 それでも、止まらなかった。
 あの場所に行かなくてはと思った。理由はもう分からなかったけれど、それだけが確かだった。

 そして、鐘楼の陰が見えた瞬間――
 私は、息を飲んだ。

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