• テキストサイズ

軌道逸脱と感情の干渉について【チ。/バデーニ】

第3章 証拠なき契約





今夜は、新月。私は窓を開け放して夜空を見つめていた。
空には月がない。そのかわり、星々の光がどこまでも透きとおるように冴え渡っていた。空気は冷たく、肌を刺すようだったけれど、それすらも心地よかった。痛みがあるぶんだけ、現実の輪郭がはっきりとした。

私は肩に外套を羽織り、そっと診療室の扉を閉めた。誰にも気づかれないよう、足音を忍ばせて回廊を抜ける。
夜更けの修道院は、まるで眠っているみたいに静かだった。風に揺れる枝の音、どこか遠くで鳴く夜鳥の声、そして、石畳を踏みしめる自分の足音──それらだけが、かすかに世界と私を繋いでいた。

丘の上までの道は、私の身体にすっかり馴染んでいた。あの夜から、何度も心の中で通った道だった。夢の中でも、白昼夢の中でも、彼と手を取り合ったあの場所へ、心だけは何度も戻っていた。
けれど今夜は、本当にその場所を目指していた。

胸の内で繰り返す問いは一つだけ。──彼は、あそこにいるだろうか?

ただ、それだけだった。
彼に会いたい。たった一言でいい。話がしたかった。
けれどそれは、祈りにも似た願いだった。もし彼がそこにいなかったら、それで終わってしまう気がして。

息をひとつ吐きながら、私はアストロラーベを両手で抱き直した。あの夜、彼が「これは予備です」と言って手渡してくれた小さな真鍮の天文器。手にしているだけで、心が少しだけ強くなった気がした。

坂道を上るたびに、心臓の鼓動が強くなっていく。冷えきった空気が肺にしみて、肩で息をしていた。
それでも、止まらなかった。あの場所に行かなくてはと思った。理由はもう分からなかったけれど、それだけが確かだった。

そして、鐘楼の陰が見えた瞬間──私は、息を呑んだ。
/ 84ページ  
スマホ、携帯も対応しています
当サイトの夢小説は、お手元のスマートフォンや携帯電話でも読むことが可能です。
アドレスはそのまま

http://dream-novel.jp

スマホ、携帯も対応しています!QRコード

©dream-novel.jp