第3章 証拠なき契約
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扉が静かに閉じる。
背後で、金具が噛み合うわずかな音がして、それだけで胸の奥に痛みが走った。
廊下には、誰もいなかった。
静かだった。いや、正確には、今もまだ自分の耳が、彼女の声で満たされていた。
わずかな言い淀みや、言葉を選ぶ癖。
そのすべてが、今も脳裏で反響していた。
歩き出す気にもなれず、廊下の壁に背を預ける。
燭台の揺れる影が、石壁に波紋のように映っていた。
その模様を、ただ意味もなく見つめていた。
——なぜ、彼女は話してくれたのだろう。
問いの形をしていたが、それは自分への非難に近かった。
訊くべきではなかったのではないか、と。
だが、同時に、どうしても訊かずにはいられなかったのも事実だった。
それほどまでに、彼女の存在が、自分の中で重くなっていた。
彼女がこの修道院にいなくなる未来。
その想像だけで、喉が締め付けられるようだった。
自分でも、滑稽だと思う。
彼女に触れたことは一度だけ。
想いを口にしたわけでもない。
それでも、彼女がこの場所から失われるかもしれないという可能性に、ここまで取り乱している。
論理で片づけられるはずもない情動。
まるで、計算式の途中に突如として現れた未知数のようだった。
思考は整理できているはずだった。
だが、胸の奥だけが、その整理に反抗していた。
彼女は、誰かに与えられるのだ。
選ぶのではなく、与えられる。
家の意向、血統、契約。そうしたもので、彼女の人生は形づくられていく。
そしてその過程に、自分は一切関与できない。
それを理解しているはずなのに、受け容れることはできなかった。
私はそういう人間ではなかったはずだ。
冷静で、合理的で、他者の生を尊重することを厭わない。
それが自分だったはずだ。
なのに——
彼女の沈黙が、忘れられなかった。
あの沈黙の意味を、勝手に解釈することは愚かだと分かっている。
だが、あれは拒絶ではなかった。そう思いたかった。
それだけのことで、今夜は眠れそうにない。
私は静かに歩き出した。
足音が石の床に吸い込まれていく。
明かりの乏しい修道院の廊下を、ひとり、目的もなく進んでいった。
まるで、自分の中のどこかに道を探すように。