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軌道逸脱と感情の干渉について【チ。/バデーニ】

第3章 証拠なき契約



 *

 扉が静かに閉じる。
 背後で、金具が噛み合うわずかな音がして、それだけで胸の奥に痛みが走った。

 廊下には、誰もいなかった。
 静かだった。いや、正確には、今もまだ自分の耳が、彼女の声で満たされていた。
 わずかな言い淀みや、言葉を選ぶ癖。
 そのすべてが、今も脳裏で反響していた。

 歩き出す気にもなれず、廊下の壁に背を預ける。
 燭台の揺れる影が、石壁に波紋のように映っていた。
 その模様を、ただ意味もなく見つめていた。

 ——なぜ、彼女は話してくれたのだろう。

 問いの形をしていたが、それは自分への非難に近かった。
 訊くべきではなかったのではないか、と。
 だが、同時に、どうしても訊かずにはいられなかったのも事実だった。

 それほどまでに、彼女の存在が、自分の中で重くなっていた。
 彼女がこの修道院にいなくなる未来。
 その想像だけで、喉が締め付けられるようだった。

 自分でも、滑稽だと思う。
 彼女に触れたことは一度だけ。
 想いを口にしたわけでもない。
 それでも、彼女がこの場所から失われるかもしれないという可能性に、ここまで取り乱している。
 論理で片づけられるはずもない情動。
 まるで、計算式の途中に突如として現れた未知数のようだった。

 思考は整理できているはずだった。
 だが、胸の奥だけが、その整理に反抗していた。

 彼女は、誰かに与えられるのだ。
 選ぶのではなく、与えられる。
 家の意向、血統、契約。そうしたもので、彼女の人生は形づくられていく。
 そしてその過程に、自分は一切関与できない。

 それを理解しているはずなのに、受け容れることはできなかった。
 私はそういう人間ではなかったはずだ。
 冷静で、合理的で、他者の生を尊重することを厭わない。
 それが自分だったはずだ。

 なのに——

 彼女の沈黙が、忘れられなかった。
 あの沈黙の意味を、勝手に解釈することは愚かだと分かっている。
 だが、あれは拒絶ではなかった。そう思いたかった。
 それだけのことで、今夜は眠れそうにない。

 私は静かに歩き出した。
 足音が石の床に吸い込まれていく。
 明かりの乏しい修道院の廊下を、ひとり、目的もなく進んでいった。
 まるで、自分の中のどこかに道を探すように。

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