第3章 証拠なき契約
――彼女の家は街で最も影響力のある家門のひとつで、教会との結びつきも強い。
彼女は七年前、十二歳のときに「嫁入り修行」と称して修道院に入れられた。
三年程度で相応しい結婚相手が見つかれば、そこで修道女としての務めは終わるはずだった。けれど婚約の話は流れ、彼女はここに留まった。
今では結婚適齢期の最後の数年に差し掛かっており、次に声がかかれば、すべてを――研究も辞して嫁がねばならない。
私は、そのすべてを飲み込めず、心が冷えていくのを感じた。
あの夜、彼女の手を取った自分が、どれほど無防備だったか。 どれほど無知だったか。彼女がどこへ帰るのかを、私は想像すらしていなかった。
まるで夢を見ていたようだ――そう思った。
裏切られた——
ほんの一瞬、そんな言葉が浮かんでしまったことを、否定できない。
けれど、その考えに意味がないこともすぐに分かっていた。
最初から、禁忌だったのだ。隠されていた事実に怒る資格など、初めから自分にはなかった。
だが、それでも。
この状況が地獄であるという認識からは逃れられなかった。
今では彼女の表情も、言葉も、すべてが罪を帯びて見えた。
それでも責めることもできず、自分もまた、彼女と同じ罪の中にあると知っていた。
言葉にすれば何かが壊れる気がして、何も言えなかった。
診療室の窓から射し込む夕方の光が、木目の床に細長い影を落としていた。
診療室の空気は、ひどく静かだった。
その沈黙を破ることができず、手当てが終わると、礼だけを口にして席を立った。
戸口に立って振り返ると、彼女は何かを言いかけたようだった。
けれどその言葉は声にならず、ただ唇がわずかに動いただけだった。
彼女の沈黙は、自分のそれよりも重たかった気がする。だが、その意味を測るには、あまりに自分は臆病だったのだ。