第5章 忘れられない人
は誰もいない器具倉庫の隅に立ち尽くしていた。
手に持ったままのタオルが、じんわりと湿っている。
(大丈夫、大丈夫……落ち着いて……)
胸の奥がひどく冷たい。息を深く吸っても、肺が膨らまない。
優人の声が、耳の奥にこびりついている。
「無理されないでくださいね」
その一言が、なぜか“命令”にすら聞こえた。
(あんなの……ただの挨拶。誰にでも言うような、何でもない言葉……)
……そう言い聞かせても、指先の震えは止まらない。
彼の顔。あの笑顔。声のトーン。近すぎる距離。
そして──あの、香り。
(あれは、前と同じ……)
記憶の底に封じたはずの景色が、ノックもなく這い上がってくる。
狭い部屋。どこかで水音がしている。誰かが名前を呼んでいる。
「また逃げたの?」
「どうしてそんな顔するの」
「ねえ、誰に助けてもらおうとしたの」
ぞくり、と背中を這う悪寒に、は思わず口元を手で押さえた。
吐き気じゃない。声が漏れそうだった。泣き声でも、叫びでもなく──名前を。
自分のではない名前を。
……それだけは、絶対に出してはいけない。
(今は、ここはブルーロック。私はもう……)
深呼吸。目を閉じる。意識して数を数える。
3秒吸って、5秒止めて、7秒で吐く。
今は目の前に誰もいない。優人も、あの部屋も、何もない。
ゆっくりと、自分の中に“現実”を取り戻していく。
指先が、少しずつ震えを忘れていく。
(……戻らなきゃ)
あの場を離れたことを、不自然に思われるわけにはいかない。
気づかれたら、心配される。優しい声で名前を呼ばれる。それすら、怖い。