第8章 「この夜だけは、嘘をついて」
そこまで言ってから、硝子は視線だけでを捉えた。
「――でも」
声色が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「どうでもいいやつに、あいつはキスしないと思うけど」
思わず顔を上げた瞬間、湯気の向こうで目が合い、の胸の奥が熱く揺れた。
(……それって)
硝子のその一言が、心の奥の柔らかい場所に触れる。
少しだけ、ほんの少しだけ――期待してもいいのかな。
そう思った途端、胸の鼓動がやけにうるさく響きはじめた。
硝子はの頬の赤みを眺めながら、ふと先日の光景を思い出す。
グラウンドを見下ろしていた五条の横顔――
何気なく見ているようだったが、その奥にふっと滲む、やわらかな眼差し。
まるで、大切なものを見つけてしまった人の目。
その視線は、誰に向けられていたのか。
――答えなんて、もうわかっている気がした。
硝子は、ほんのわずかに口元を緩めながら、カップを手に取る。紅茶の香りを一口だけ味わい、静かにテーブルへと戻した。
その時。
こん、こん、と律儀な二度のノックが響いた。
「どうぞ」と硝子が応えると、黒のスーツ姿の伊地知が姿を見せた。
「伊地知、お前も遅くまで大変だな」
硝子がカップを傾けたまま、口元だけで笑う。
その声音には、同情とも皮肉ともつかない温度が混じっていた。
伊地知は、眉尻をわずかに下げて苦笑し、軽く肩をすくめる。
「はは……仕事ですから」
短く返すと、手元の書類を小さく揺らしてへ視線を向けた。
「さん。お疲れかもしれませんが、学長室へご同行ください」
声を少しだけ低くする。
「……査問会のことで、夜蛾学長からお話があります」
その言葉に、は手の中のカップをそっと置いた。
伊地知の落ち着いた声色が、室内の空気を一段重くする。
短く頷くと、彼の背に続いて医務室を後にした。