第8章 「この夜だけは、嘘をついて」
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医務室は、薬品の匂いと消毒液の冷たい空気に満ちていた。
ベッドの端に腰かけると、硝子が椅子を引き寄せ、無言で手袋をはめる。
「口、ちょっと開けて」
促されるままに動くと、コットンに染みた消毒液が、切れた唇の端に触れた。
「っ……」
わずかに沁みる感覚に、身体がわずかに跳ねる。
硝子は表情を変えず、慣れた手つきで手当てを続けた。
「我慢して。すぐ終わるから」
淡々とした声の奥に、ほんの少しだけ柔らかさが滲んでいる気がした。
やがて消毒が終わり、小さな絆創膏が口元に貼られる。
「はい、終わり」
硝子は手袋を外しながら軽く息を吐いた。
「の力……魔導って言うんだっけ?」
「はい、そうみたいです」
「そのせいなのか、には私の反転術式が効きにくい。だから――あまり無茶はするなよ」
落ち着いた声に、は小さくうなずく。
「……はい。気をつけます」
硝子は椅子を少し引き、を正面から見た。
「殴られた以外は? 特に乱暴されてないか」
「大丈夫です……その前に、先生が助けに来てくれたので」
そう口にした瞬間、さっきの廊下での出来事が頭をよぎった。
(……先生、助けてくれたのに)
少し困っていて――どこか驚いたような表情。
きっと私が余計なことを言ったせいで、あんな顔をさせてしまった。
先生にとっては、きっと何でもない、軽いキスのひとつなのかもしれない。
でも、私にとっては……。
唇に残る感覚が、胸の奥をじわじわと熱くする。
思わず視線を落とし、膝の上でそっと拳を握った。
その仕草を横目に見ながら、硝子は短く息をつき、少しだけ口角を緩めた。
「そうか……でも、が諦めて抵抗してなかったら、五条も間に合わなかったと思うよ」
そして、少し声を柔らかくして続ける。
「怖かっただろ。……よく頑張ったな」
その言葉に、の目がじわりと潤む。
さっきまで――もう死んでもいいや、と思っていた自分が、急に恥ずかしくなる。
五条も、硝子も、伊地知も……みんな、自分のことを必死に心配してくれているのに。
それを、自分から手放そうとしていたなんて――。