第7章 「残るのは、君だけ」
***
夜蛾学長との打ち合わせを終え、送迎車の後部座席に身を沈めた。
背もたれに深く預けているつもりでも、足先は小さく揺れ続けている。
無意識に、口の中で名前が零れた。
「……」
吐息のような声だった。
意味も理由もない。ただ、この瞬間、どうしようもなく呼びたくなった。
(あの距離の取り方……)
訓練中、は一度も視線を寄越さなかった。
それを思い出すだけで、また胸の底にじわじわと苛立ちが広がっていく。
寮の前に差し掛かかった時、ふと顔を上げた。
建物の二階、の部屋――窓は暗い。
(……もう寝た? いや)
胸の奥に小さな棘が刺さる感覚。
車が停まっても、しばらく降りずにいた。
ほんの数秒のはずなのに、妙に長く感じる沈黙のあと、
結局、足は勝手に動いていた。
廊下を歩き、彼女の部屋の前に立つ。
鍵は、かかっていない。
扉を開けると、静まり返った部屋。
机の上には充電中のスマホ。
ベッドは整い、制服はハンガーにかかったまま。
ここ数時間、彼女が一歩も戻っていないことは明らかだった。
(あの後、部屋に戻ってないのか?)
部屋のの残り香が、胸のざわつきをさらに煽る。
そのとき、背後から声がした。
「……なに勝手に人の部屋開けてんのよ」
振り向くと、野薔薇が怪訝な顔で立っていた。
腕を組み、睨むような視線を寄こす。
「なら、まだ帰ってきてないけど?」
「……え?」
思わず聞き返すと、野薔薇は眉をひそめて続けた。
「夕方、補助監督ぽい人と車に乗ってったの見かけたわ」
――その瞬間、頭の中で何かが切れた。
バンッ!
壁に叩きつけた手のひらから、乾いた衝撃音が響く。
野薔薇も伊地知も息を呑む。
「……やられた」
押し殺した低い声。
普段の軽さは微塵もなく、鋭い殺気だけが漂う。
踵を返し、廊下を駆け出した。
「五条さん、どこに!?」と伊地知の声が背後から追う。
「夜蛾学長に――緊急事態って連絡して!」
夜の闇を裂くように走りながら、奥歯を噛み締める。
(……想定してたはずだろ。
なのに――どうして、こんなに心がざわつく)
理由も名もつけられない熱が、ただ胸の奥で脈打っていた。