第5章 「境界に口づけて」
支えを失ったひとみの体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
「……っ!」
五条は素早く腕を伸ばし、その小さな体を抱きとめた。
冷たい。
まるで今しがたまで別の何かに占拠されていた証のように。
「……悠蓮」
低く名を呼ぶ。
「そいつが……の力の原因なのか」
独白のような声が、虚しくトイレの静寂に吸い込まれていった。
***
は息を呑み、瞼を開いた。
そこは――また、あの場所。
果てしなく続く白い花の海。
吹き抜ける風が花弁を巻き上げ、肌をかすめるたびに、足元がふわふわと浮く。
自分の体が、自分じゃないみたいだ。
――その時。
『目覚めたか』
背後から、あの声が降ってきた。
振り返る。
そこに――いた。
夢で幾度も見た女。
雪のように白い肌。夜の水を思わせる黒髪。
そして、全てを見透かす翠の瞳。
の心臓が一度だけ大きく跳ねた。
『怯えるな』
女は、ゆっくりと歩み寄る。
その声音は母のように優しく、底知れぬ深みを孕んでいた。
『私はお前を喰らうためにいるのではない』
「……なに、言って……」
声が震える。
視線を逸らしたいのに、翠の瞳が釘のように心を打ちつける。
『我が名は――悠蓮』
名を告げた瞬間、花々がざわめき、世界がその名を讃えるように風が吹き抜けた。
『お前は私の器だ』
冷たい指先がの頬を撫でる。
触れられた場所から、ぞくりとした寒気と熱が同時に広がる。
『だが、それは奪うためではない』
「……器……? そんなの……」
『いずれお前が生き延びるために――私の力が必要になる』
一言ごとに、胸の奥が締めつけられていく。
不気味で、恐ろしいのに――なぜか抗えない。
「……いや……来ないで……!」
後ずさる足は、地面に縫い付けられたみたいに動かない。
悠蓮はそんなを見下ろし、どこか慈しむように微笑んだ。
『恐れるな。拒んでも、抗っても――』
その声音は甘美な呪いのようだった。
『――時が来れば、お前は私と一つになる』
突風が吹き抜け、白い花弁が視界を埋め尽くす。
世界が音を失い――
の意識は、闇に沈んだ。