第5章 「境界に口づけて」
洗面台の前で、が背を向けて立っていた。
小さな背中。見慣れたはずの輪郭。
――なのに。
(……違う)
全身の毛穴が一気に開く。
呪霊でもない。人間でもない。
けれど、そこに立つのは“じゃない何か”だと直感した。
喉の奥が自然に低く鳴る。
「……お前、誰だよ」
いつもより低い、自分でも驚くほど鋭い声。
その声に応えるように、の肩が小さく震えた。
ゆっくりと振り返る。
次の瞬間――五条の六眼が捉えたのは。
翠。
見慣れた茶色じゃない。
光を帯びるように冴え渡る、深い翠の瞳。
五条の背筋を冷たいものが走る。
無意識に、指先に呪力が集まっていた。
『……やはり。六眼の気配がした』
口が開かれ、そこから出た声は、のものではなかった。
低く澄んだ女の声。
『“あの男”の血か。……時を越えても、気配は似ているな』
五条は眉をひそめる。
軽く肩をすくめ、いつもの調子を装う。
けれど六眼は、その女がではないと告げていた。
「はどうした?」
声色は一転して鋭くなる。
女はゆっくりと唇を動かした。
『……安心しろ。今は“借りている”だけだ』
五条はわざと肩の力を抜き、口元をゆるめた。
「へぇ……そりゃよかった」
わずかに身を前に出し、低く笑う。
「――でもさ、早く返せよ。その子、僕の“可愛い生徒”なんだよね」
軽口のようでいて、その奥に冷えた圧が滲む。
女は一瞬だけ沈黙し、やがて愉快そうに笑った。
『……可愛い?』
女はわずかに口角を上げる。
その笑みは、の顔をしていながら――まるで別の何か。
『……そうかもしれんな』
挑発とも受け取れる響き。
五条のこめかみに小さく青筋が浮く。
「……チッ」
舌打ちが漏れた。
六眼は警告を告げている。この存在は危険だ、と。
「質問に答えろ! お前は――誰なんだよ」
低く、殺気すら帯びた声。
女はそんな圧を楽しむかのように、ゆっくりと唇を吊り上げた。
『――悠蓮』
その瞬間、空気がひび割れるような圧が走った。
翠の瞳がこちらを射抜く――それだけを最後に、女はふっと消える。