第9章 「あなたの知らないさよなら」
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京都――
梅雨の湿気を帯びた風が、古都の街をゆるやかに撫でていた。
その一角、杉垣に囲まれた広大な敷地の奥。
静けさと威厳を湛えた、伝統ある屋敷がひっそりと佇んでいる。
黒漆塗りの門。
重厚な瓦屋根に、白木の格子。
格式のある家ならではの静かな気配と、どこか張り詰めた空気が漂っていた。
五条はその前に立ち、ほんの少しだけ空を見上げた。
「……雨、降りそう」
呟いた声を風がさらう。
門をくぐり、白砂が敷かれた中庭へと足を踏み入れる。
そのとき――
「悟〜! こっちこっちっ」
弾むような声が飛んできた。
振り返ると、日除けの帽子に、生成りのエプロンをかけた女性が、しゃがみこんで花壇に手を伸ばしている。
日向 深雪――
柔らかな笑みを浮かべた彼女は、縁側の近くで膝をつき、
手にはスコップ。
花壇の植え替えをしている最中のようだった。
しゃがみこんだまま、少し髪を耳にかけながら、また手を振る。
「こっちの庭のラベンダーを植え替えててね、もうちょっとで終わるから!」
五条は、縁側に近づくとラベンダーの群れに目を向けた。
紫の小花が規則正しく咲き並び、風にそよいでいる。
「……ラベンダーって、この家の雰囲気と合ってなくない?」
瓦と白木と白砂、伝統の重みを纏う庭に、ラベンダーの紫がひときわ浮いて見える。
だが、深雪はふっと笑うと、軽く肩をすくめて返す。
「いいの。好きなんだから。
古い家に、ちょっとくらい私の趣味が混じってても、許してくれるでしょ?」
そう言って、スコップを置き、手袋を外しながら立ち上がる。
エプロンの裾を軽く払って、帽子を押さえながら五条に向き直った。
「……悟、今日はゆっくりできるの?」
そう問いかけた深雪に五条は、何も答えなかった。
ただ、わずかに眉を動かし、そのまま彼女を見つめ返す。
まるで、その問い自体の真意を測ろうとするかのように。
深雪は、その沈黙を気にも留めず、いつもの調子で笑う。
「……ご飯でも行こうよ」
「京都、久しぶりでしょ? ふふ、私が奢ってあげるよ」
だが――
その笑みにも、言葉にも、五条は乗らなかった。