第9章 「あなたの知らないさよなら」
「統計学の授業で、“二人の人間が出会う確率”ってのを試算したことがある」
「僕の話聞いてる? てか、急に何の話?」
硝子は気にせず、続けた。
「詳しいことは省略するけど、結論だけ言えば――
世界中の人間の中で、“誰かが誰かと出会う”確率は……およそ、180億分の1」
煙の中で揺れるその数字は、もはや実感の届かない遠さだった。
「……とんでもなく、奇跡的な数字だと思わないか?」
五条は、黙って聞いていた。
硝子は立ち上がり、火のついたタバコを軽く指先で払う。
そのまま、五条の前に立つと――
わずかに目を細めながら、視線を落とした。
「出会いは奇跡」
やわらかく、だが芯のある声だった。
「大切にした方がいいぞ」
言い終えると、硝子は踵を返して歩き出す。
白衣が風に揺れ、タバコの煙だけが残った。
五条はその背中を黙って見送っていたが――
ふっと笑みをこぼした。
「……慰め方、下手か」
そう呟いて、立ち上がる。
「……よいしょっと」
乾いた声と共に、ベンチを後にする。
歩き出す背に、何もない空気だけが流れていく。
ほんの一歩。
それでも、前へ。
そして――
「お姫様を迎えに行きますか」
「……楽しい地獄になりそうだね」
その声は、誰に届くでもなく。
ただ、静寂のなかに、音もなく溶けていった。