第8章 「この夜だけは、嘘をついて」
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静まり返った廊下を、足音だけがゆっくりと進んでいく。
生徒たちと別れたあとの静寂は、さっきまでの喧騒が嘘のようだ。
窓の外では夜風が木々を揺らし、そのざわめきが遠くから届く。
五条はポケットに手を突っ込みながら、ふっと息を吐いた。
――あの瞬間が頭を離れない。
額がふれて、目が合って、
あとほんの少しで、触れられると思ったのに。
その直前で――彼女は震えて、そっと僕を押し返した。
『……キスは……好きな人同士が、するもので……』
『それに……私と先生は、そういう関係じゃありませんよね』
その言葉が、思った以上に深く刺さった。
ぐさりと、胸の真ん中に。
(……好きな子に、触れたいって思うのって。そんなに変か?)
ただ、キスがしたかった。
駆け引きでも、証明でもなく。
好きだから、触れたくて、
触れた先に、なにか確かめたくなって。
むしろ、の方だって――
だって前に、僕にキスしようとしたじゃん。
ああいうのって、そういう気持ちがあるからじゃないの?
初めてだった。
自分から“欲しい”と思ったのは。
これまでは、求められるばかりの人生だった。
僕が好かれる側で、恋愛はいつだって“向こうからやって来るもの”だった。
訊いたんだ、あのとき。
「は、僕のこと、どう思ってるの?」って。
でも――
返ってきたのは、“先生”って言葉だった。
さらに追求しようとしたが、は答えなかった。
けれど――
言えなかったことが、何よりの答えだった気がする。
眉をしかめながら曲がり角を抜けたところで、
医務室の灯りが消えるのが見えた。
戸締まりを終えた硝子がこちらを振り向く。
五条は軽く片手を挙げて、
「お疲れサマンサ〜。硝子、今帰り?」
硝子は一瞬だけ足を止め、半眼でこちらを見た。
「……仕事終わりにそのテンション、正直しんどい」
「あれ? なんでそんな嫌そうなの?」
「察しろ」
そう言い捨て、硝子は歩き出す。
五条は気にした様子もなく、隣に並んだ。