第8章 「この夜だけは、嘘をついて」
「……あんたが攫われたって聞いたときさ――先生、すごい顔してた」
「え?」
「すごい剣幕っていうか……殺気。あんなの、初めて見た」
「……そう、なんだ」
胸の奥がまたわずかに熱を帯びる。
自分のために、先生が――。
そう思っただけで、また小さな灯りが心にともった気がした。
そのまま二人は部屋の前で別れた。
部屋に入ると、静けさが押し寄せる。
ベッドに腰を下ろし、肩にかけていた五条の制服の上着をそっと脱ぐ。
布の重みと、指先に残る温もり。
離そうとしても、なぜか手が止まる。
気づけば、その上着に顔をうずめていた。
石けんの清潔な香りの奥に、ふっと混じる彼だけの匂い――
抱きしめられたときも、キスされたときも、胸を占領してきたあの感覚。
まるで今、すぐそこにいるような錯覚に陥る。
瞼を閉じた瞬間、硝子の声が脳裏に浮かんだ。
『どうでもいいやつに、あいつはキスしないと思うけど』
すぐさま、野薔薇の言葉が重なる。
『……あんたが攫われたって聞いたときさ――先生、すごい顔してた』
その二つの声が、夜の静寂に溶けながら胸の奥で何度も反響する。
――好きって、言ってもいいのかな。
その問いは、夜気の中でほどけずに胸に沈む。
答えを探すように、上着の生地を指先でなぞった。
触れた場所から、じんわりと温もりが広がっていく。
まるでそのぬくもりが、迷う心をやわらかく包み込むようで――
はそっと目を閉じた。
静かな鼓動だけが、部屋の中に響いていた。