第5章 おいしゃさんごっこ
メスを持った手が、わずかに空を切った。
どこに向けて動いたのか、自分でもはっきりわからなかった。
ただ、震えていた。手が、指が、肩ごと、小刻みに。
視界が少し揺れる。
細く反射した銀色の線の先、ランダルのお腹が静かに上下していた。
「うん、いいよ~。そのへん、そのまままっすぐ。もうちょっと下……」
ランダルの声が聞こえる。けれど、それがやけに遠い。
耳の奥で水の中にいるような、くぐもった響き方をしている。
自分の鼓動だけが、耳の中でやけにうるさくなっていた。
気がつけば、額から何かがつうっと流れていた。
それをぬぐう余裕もないまま、私はメスを構えた手を宙に止めていた。
呼吸ができていない気がする。
肺がふくらまない。喉が詰まる。視界の中心だけが白くぼやける。
「緊張してるの~?だいじょぶ、だいじょぶ!ボク、ぜんぜんへーきだよぉ~」
ランダルは台の上で微笑んでいる。
それはいつも通りの顔。なのに、それが一番恐ろしかった。
隣でセバスチャンが動いている気配がしたけれど、目を向けられなかった。
部屋の空気は張りつめていて、少しでも何か動かせば、壊れてしまいそうだった。
私は、どうすればいいのかわからなかった。
でも、ランダルが“していい”と言った。
それが許可になってしまった気がして、私は動きを止められなかった。
「~?……ねぇ、まだ?」
ランダルが台の上から首をかしげ、のぞきこむようにこちらを見た。
声は明るいままだが、そこにわずかな焦れが混じる。
私の手は、ランダルの腹部に近づいていく。
その肌は白く、体温を感じさせないほど静かだった。
ほんの少し、刃の先が触れた気がした。その瞬間、世界の音が――すっと、消えた。