第1章 出会い
店に入ると、ちょうど客の入れ替わる時間帯だったらしく、カウンター席がいくつか空いていた。店内には低くジャズが流れ、照明は落ち着いた暖色でまとめられている。紫苑は視線を軽く流し、奥の静かな席を選んで歩いた。
「ここでいい?」
隣を歩く甚爾が特に何も言わないので、そのままカウンター席に腰を下ろした。彼も同じように、ゆっくりと椅子に座る。
「何飲む?」
紫苑が聞くと、甚爾は無造作に肩をすくめる。
「何でも」
「適当ね」
苦笑しながら、紫苑はバーテンダーに「ウイスキーを、こっちは適当に。あと軽食幾つかお願い」と注文する。バーテンダーが軽く頷き、慣れた手つきでグラスを用意し始めた。店内には微かに氷がぶつかる音が響く。
「何でもって言うけど、苦手な酒とかないの?」
「……飲まねぇしな」
紫苑は少し意外そうに彼を見た。
「え、弱いの?」
甚爾は面倒くさそうに笑った。
「逆。酔えねぇんだよ」
「なるほど」
紫苑は小さく頷きながら、バーテンダーが静かにグラスを差し出すのを受け取る。甚爾の前にも酒が置かれるが、彼はグラスに指をかけただけで、すぐには口をつけなかった。
「……で、本当にただ飯が食いたかっただけ?」
紫苑が氷をゆっくりと揺らしながら問いかけると、甚爾は少しだけ口角を上げる。
「それ以外に何がある?」
「さぁ?」
紫苑は、グラスの縁を指でなぞった。視線を落としながら、ほんの一瞬考える。
——なぜ、未読無視を続けた男が、今さらこんなふうに連絡をしてきたのか。
「……まぁ、いいわ。こっちもヒマだったし」
ウイスキーを一口飲みながら、紫苑は自分自身に言い聞かせるように呟く。
「そりゃ良かった」
甚爾は淡々とした口調でそう言った。紫苑が彼の顔を覗き込むと、相変わらず感情の読めない目をしていた。まるで、何も考えていないかのような、無機質な静けさ。
紫苑は軽く笑う。
「あなたって、何考えてるのか全然わからないわね」
「考えてることなんて、大してねぇよ」
「ふーん」
深く考える必要はない。ただの気まぐれ。紫苑も、そういうことにしておけば楽だった。