第1章 出会い
「どうせ今から寝るだけだったし。暇つぶしにはちょうどいいわ」
紫苑はそう言いながら、無意識にハイヒールを履き直していた。
「……何が食べたいの?」
自分でそう返しておきながら、何をやっているんだろう、と思う。
数週間も未読無視しておいて、いきなり深夜に「飯を奢れ」。まともな男ならありえない要求だ。
『適当に任せるわ』
甚爾は特に興味もなさそうに言った。
『お前の行きたいとこでいい』
(随分と雑ね)
紫苑はスマホを耳に押し当てたまま、ヒールを履き直す。
「じゃあ、近くのバーでも行きましょうか」
『んじゃ、迎え頼むわ』
「……私が?」
『俺、今タクシー拾うの面倒くせぇし』
適当な言葉を返しながら、甚爾は欠伸でもしているような口調だった。紫苑は呆れつつも、結局「いいわよ」と返していた。
スマホの画面を見つめる。通話はすでに切れている。
(なに、この展開)
妙な感覚だった。客でもない男のために、深夜にタクシーを出すなんて、普段の自分ならしないことなのに。
バッグを掴み、フロントに軽く声をかける。
「お疲れ様です。ちょっと寄り道して帰るわ」
ボーイが「お気をつけて」と見送る中、紫苑は店を後にした。
タクシーに乗り込み、甚爾が送ってきた位置情報を確認する。
(……本当に、何なんだろうね)
未読無視のまま終わるはずだった。客にはならないし、縁もなかったはずの男。
それなのに、紫苑は今、彼を迎えに行こうとしている。
タクシーは静かに車道を滑っていく。紫苑はスマホを眺めながら、甚爾の送ってきた位置情報を確認した。
(……こんなとこにいたんだ)
地図上に示された場所は、クラブ街から少し離れたエリア。
高級ホテルや会員制のバーが点在するこの界隈で、深夜に男が一人でいる場所としては妙に中途半端だった。
「ここでいいです」
タクシーを降りると、夜風が肌を撫でる。
二月の冷たい空気が、アルコールで火照った体を少しだけ冷やしてくれた。
見渡すと、街灯の影に甚爾の姿があった。
壁にもたれかかり、片手にタバコを挟んでいる。
黒のTシャツにシンプルなスラックス。
羽織っているのは、店で見たときと同じ黒のジャケット。