第4章 彼が去った後
そして、ある朝。
紫苑は、ふと目を覚ました。
窓の外から差し込む淡い光が、部屋の静けさを際立たせている。
枕元の時計を確認するでもなく、ただ天井を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
不思議なほど、心が静かだった。
まるで長い夢から覚めたように、どこか現実感が薄れている。
(きっと、あれはいい夢だった)
目を閉じると、鮮やかに蘇る記憶がある。
煙草の煙が漂うカウンター、無造作に笑う彼の横顔、酔いに任せて交わしたくだらない会話、彼に腕枕をされながら意味もなく筋肉をなぞってくすぐったそうに笑われたこと——どれも手のひらから零れ落ちる砂のように、もう二度と掴めない。
夢に沈むように始まり、夢から覚めるように終わった関係だった。
少しの甘さと、どうしようもない虚しさを残して、すべては消えてしまった。
けれど、それでも、その欠片がまだどこかに残っている気がして、紫苑はそっと枕元のスマホを手に取った。
トーク画面を開く。
そこにあるのは、最後の未読メッセージ。
指でなぞるようにスクロールするたび、断片的な思い出が蘇る。
「……そろそろ、消そうかしら」
ぽつりと呟く。
けれど、指は動かない。
削除のボタンを押すことは簡単なのに、それができない自分に、紫苑は苦笑する。
彼との日々は、決して幸せだけではなかった。
むしろ、傷つくことのほうがずっと多かったはずだ。
苦しみ続けた恋だった。
それでも、ほんの一瞬だけでも心を預けられた時間があったことを、なかったことにはできなかった。
ベッドから起き上がり、ヘッドボードに背を預けながらタバコに火をつけ、煙を細く吐き出す。
青白い煙がゆらゆらと漂い、消えていく。
それを見ながら、紫苑は思う。
(もう少しだけ)
(もう少しだけ、このままにしておこう)
指を止めたまま、スマホを伏せる。
儚く、美しく、触れた途端に消えてしまうような夢だったのだ。
彼との数年は、胡蝶の夢だったのだ。