第3章 手遅れ
「……もし俺に何かあったら」
甚爾の声が、ふいに響いた。
彼の口調はいつもの軽薄なものとは違っていた。
冗談のようでいて、どこか本気の響きを帯びている。
その違和感に、紫苑はわずかに眉をひそめた。
「は?」
甚爾は、冗談めいた口調で笑う。
「もし俺に何かあったら、恵を頼めるか?」
紫苑は息をのむ。
あまりに唐突な問いだった。
冗談にしては妙に重い。
彼は何を考えているのか、と紫苑の中に得体の知れない不安が生まれた。
「何それ、遺言?」
「かもな」
紫苑は思わず笑いそうになったが、それをぐっと堪えた。
冗談として流すには、彼の表情が真剣すぎた。
「やめてよ、縁起でもない」
紫苑はグラスを置いた。
小さな音がテーブルに響く。
酔いが回っているはずなのに、妙に意識がはっきりしていた。
「それに、私には無理よ」
彼女の声は静かだった。
指先がグラスの縁をなぞる。
その仕草に込められたのは、彼女自身の迷いだった。
受け入れられないもの。否定したいもの。
しかし、それでも心のどこかで引っかかっているもの。
「私は、正しい母親を知らないもの」
甚爾は短く笑った。
その笑いはいつものように乾いていたが、どこか寂しげだった。
「俺もだ」
紫苑は、少しだけ目を伏せる。
自分と同じだと言うこの男の言葉が、なぜか妙に胸に残る。
「あら、じゃあ、お似合いね」
「そうかもな」
二人は軽く笑い合う。
まるでどうでもいい話をしているかのように。
だが、それは決して軽い話ではなかった。
紫苑は、この言葉が彼の最後の言葉になるとは思わなかった。