第3章 手遅れ
何を言っても無駄なのはわかっている。
だが、それでも、のどの奥からこみ上げてくる言葉を止められなかった。
「朝、誰がご飯作るの?」
「……」
「夜、寝る前に絵本を読んであげたり、歯磨きをしてあげたりする人は?」
「……」
「夜中に悪い夢を見て泣いたら、誰がそばにいるの?」
甚爾の視線が、紫苑を捉える。
「……お前、何が言いたいんだ?」
紫苑は、静かに笑みを流す。
だが、その笑みの裏には、彼女自身の過去に残る痛みが漩んでいた。
「あなたの子供、かわいそうだと思わないの?」
甚爾は短く笑った。
だが、その笑いには何の力もなかった。
「お前が言うのかよ」
恵の親でもないくせに。
「言うわよ」
紫苑はソファに身を預け、ふっと目を閉じる。
「だって、私、あの子の気持ちがわかるもの」
その声は、心の底から湧き出たような、どこか折れるような音色だった。
これまでの話の流れを全て吸い込むような言葉だった。
そして、ゆっくりと言葉を続けた。
「親に放っておかれて、誰にも必要とされてる気がしないまま大きくなったら、どうなると思う?」
甚爾は黙ったまま、タバコの先がチリチリと音を立てるのを聞いていた。その中で、紫苑は言う。
「きっと、私みたいになるわよ」
もう一度、心に重くのしかかった言葉で。
その夜の静けさが、他のどんな声よりも驚くほど大きく音を立てていた。
紫苑は静かにグラスを傾けた。
琥珀色の液体が揺れ、光を反射しながらグラスの内側を滑るように流れる。
氷が微かに音を立て、夜の静寂に溶けていった。
アルコールが喉を通る感覚を確かめるように、紫苑はゆっくりと息を吐いた。
熱が胃に落ち、体の内側からじんわりと温まるのを感じる。
しかし、それでも彼女の胸の奥に冷たいものが残るのは、目の前の男のせいだった。
「あなた、子供を育てる気、あるの?」
問いかけながら、紫苑は目を細める。
部屋の薄暗い明かりが、甚爾の無表情な顔をぼんやりと照らしていた。
彼の指先にはタバコが挟まれており、その先端がゆらゆらと燃えている。
紫苑は彼が今、適当な言葉を並べてこの場をやり過ごそうとしているのを感じ取った。