第1章 出会い
「紫苑さん、場内いただいてます」
「……え?」
一瞬、聞き間違いかと思った。
場内指名とは、その日のうちに指名を決めること。初回客が誰を指名するかは自由だが、紫苑は甚爾の態度から、まずあり得ないと思っていた。
「どなた?」
念のため確認すると、ボーイが視線を向ける。
さっきまで紫苑のいたテーブル。
あの男が、何の感慨もなさそうにグラスを傾けているのが見えた。
(……どういう風の吹き回し?)
戸惑いながらも、紫苑は微笑みを作り、再び席に戻る。
「ありがとうございます。でも、私の接客、退屈じゃなかった?」
「別に」
甚爾は薄く笑いながら、氷の溶けたウイスキーを回す。
「何となく、ってやつだ」
深い意味はない。たまたま。気まぐれ。そう言わんばかりの口調。
本当にそうなのかもしれない。紫苑はそう思った。
それでも、男の視線はどこか「選んでやった」という意図を感じさせる。
「そっか。嬉しいわ」
紫苑は営業スマイルを浮かべ、グラスを手に取る。
場内指名を受けたからには、接客を続けるのがルールだ。それから小一時間、紫苑は甚爾の相手をしたが、彼の態度が劇的に変わることはなかった。ただ、先ほどよりも会話のテンポが少しだけマシになった程度。
そして、閉店時間。
紫苑は甚爾と共にエントランスへ向かった。クラブの扉が開くと、湿った夜風が肌を撫でる。
「タクシー、呼びます?」
甚爾は答えず、ズボンのポケットに手を突っ込んだかと思えばタバコを取り出した。反射的に紫苑がライターを取り出して火をつけてやる。慣れた様子で、ゆっくりと紫苑を見た。
「お前、LINEやってるだろ?」
「あら、聞いてくれるのね」
紫苑は軽く笑いながら、スマホを取り出す。
彼女がQRコードを開くと、甚爾は面倒くさそうに画面をかざした。
「送っとくわ」
「じゃあ、待ってる」
スマホを仕舞いながら、紫苑は甚爾を見上げる。
「次はいつ来てくれるの?」
「さあな」
甚爾は曖昧に笑い、煙を吐き出した。