第5章 ふとした日常
バージルは、静かに書物を読んでいた。
いつものことだ。
しかし、どうにも視線が文字の上を滑る。
理由はわかっている。
すぐそばで、ビアンカがネロをあやしているからだ。
「あー、よしよし、ネロ。お腹すいたのかい?」
椅子に座ったビアンカは、ネロを抱き上げながら揺らしている。
ネロは小さな手をぱたぱたと動かしながら、ビアンカの顔を見上げていた。
「大丈夫、大丈夫。はい、ミルクだよ」
ビアンカが微笑むと、ネロは安心したように目を細めた。
その光景を、バージルは無意識に目で追っていた。
──これは、知っている光景だ。
突然、記憶が蘇る。
遠い昔、微かに覚えている、母の姿。
エヴァが、幼い自分とダンテを抱いていた。
温かい腕の中、優しく微笑む母。
「……」
バージルは、無意識のうちに本を閉じていた。
胸の奥が、ざわつく。
懐かしさとも違う。
痛みとも違う。
だが、確かに何かが軋むような感覚。
「バージル?」
ビアンカが、ふとこちらを振り返った。
「どうしたんだい? そんな難しい顔して」
「……何でもない」
バージルは短く答えると、視線を本へ戻す。
だが、文字はやはり頭に入ってこなかった。
「そっか。でも、アンタもこうだったんだろうね」
「何がだ」
「赤ん坊の頃。ママに抱っこされて、こうやってミルク飲んでたんだろ?」
ビアンカはくすりと笑い、ネロを優しく揺らした。
「きっと、アンタのママも、こんな風にアンタのことを大事にしてたはずさ」
──知るまでもないことだ。
母が自分たちを愛していたことは、疑いようもない。
しかし、その温もりの記憶は、あまりにも遠い。
「……くだらん」
そう呟くと、バージルは立ち上がった。
「俺は出る」
「ん? ああ、いってらっしゃい」
ビアンカは気にする様子もなく、ネロを抱きしめたまま見送る。
バージルは背を向けたまま、拳を握りしめた。
──エヴァは、もういない。
それなのに、どうして、こんなにも遠い記憶が蘇るのか。
バージルは、静かに屋敷を後にした。
ただ、ビアンカの「いってらっしゃい」という言葉が、胸の奥に残り続けていた。