第5章 ふとした日常
バージルが窓際に座り、紅茶を飲んでいると、ビアンカが小さく声をあげた。
「おおっと、すごいすごい!」
見ると、床の上でネロがもぞもぞと動いていた。
小さな体を支えながら、今にも立ち上がろうとしている。
「お? 立つか? 立つかー?」
ビアンカが手を差し伸べる。
ネロは、彼女の方へ向かって小さな腕を伸ばし──
バタリ。
尻もちをついた。
「おーおー、惜しい!」
ビアンカは笑いながら、ネロの頬を撫でた。
バージルは、その様子を静かに眺めていた。
「……何が面白い」
「だって、もうすぐ歩けそうなんだよ? すごいじゃないか」
「……ふん」
バージルは、特に興味がないといった顔をしたが、目だけはしっかりとネロを見つめていた。
その視線に気づいたかのように、ネロがふいにバージルの方を向いた。
小さな手が、バージルに向かって伸びる。
「……」
バージルは、僅かに目を細めた。
「バージル、おいでって言ってるよ?」
ビアンカが茶化すように笑う。
バージルは黙ったまま、ほんの一瞬だけ考えた。
──手を伸ばせば、この子は歩くのだろうか?
そんな馬鹿げた思考を振り払うように、バージルは立ち上がった。
「俺の手など借りずとも、いずれ歩くだろう」
「ちぇっ、つれないねぇ」
そう言いながらも、ビアンカの笑みはどこか優しかった。
ネロは、転んでも転んでも、何度も立ち上がろうとしていた。
バージルはその様子を見届けながら、もう一度、紅茶を口にした。