第16章 平和な日常を
ヴィオラは小さなベビーベッドの上で、柔らかな息を吐いていた。
まだ生まれて数ヶ月のその身体は、あまりにも小さく、壊れそうなほどに儚い。
バージルは無言のままベッドの傍に立ち、眠る娘を見下ろしていた。
表情に感情は浮かばない。
だが、その内側では確かに、言葉にならない感覚が胸を満たしていた。
──奇跡のような何か。
そんなものを信じたことはなかった。
力こそが全てであり、己が求めるものは剣の先にしかないと思っていた。
だが。
ヴィオラはバージルの指先に小さな手を伸ばし、ぎゅっと握る。
力のない、小さな握力。
それでも決して離さぬように、しっかりと掴まる。
その瞬間、何かが胸を打つ感覚があった。
紫色の瞳が、まっすぐにバージルを見上げる。
まるで、何も疑わず、何も恐れず、ただ「そこにいる」ことを当然のように受け入れているような瞳。
こんなふうに、無垢な目で見つめられたことが、かつてあっただろうか。
この世界に生まれたばかりの、何も知らない小さな存在が、彼の存在を当たり前のものとして受け入れている。
……祈り。
バージルは信仰など持たない。
神にも、運命にも、興味はない。
だが、この小さな存在が自分の指に触れた時、心の奥底で、何かを願ってしまいそうになる。
「……」
何を願うのかは、まだわからない。
だが、確かにヴィオラの存在は、彼の中に今までなかった感情を生み出していた。
指先をわずかに動かし、ヴィオラの小さな手を握り返す。
すると、ヴィオラは満足そうに小さく息を吐いて、再び静かな眠りへと落ちていった。
バージルはゆっくりと手を離し、娘を見下ろしたまま、微かに目を細めるのだった。
「不公平だろ!」
背後から聞こえた声に、バージルは振り向きもしない。
ネロは不満げに腕を組み、父の背中を睨みつける。
「ヴィオラにはそんな顔してんのに、俺には一回も見せたことねぇよな!」