第9章 旅の始まり
翌朝、フォルトゥナの空は澄み渡り、昨夜の出来事がまるで夢だったかのように静かだった。
バージルは身支度を整え、孤児院の前に立つ。
昨夜はほとんど眠れなかった。
だが、それを悟らせるような素振りは見せず、ただ淡々と告げる。
「……オレは行く」
ネロとキリエの前に立ち、バージルは短くそう言った。
ネロは眉をひそめる。
「もう行くのかよ? せっかく来たんだし、もう少しゆっくりすればいいだろ」
「オレには、ここで過ごす理由はない」
バージルは迷いなく言い切った。
ネロは小さく舌打ちし、肩をすくめる。
「ったく……相変わらずだな、アンタは」
「貴様こそ、相変わらず口が減らんな」
そのやりとりを見ていたキリエが、少し寂しそうな微笑みを浮かべた。
「もう少し、いてくださってもよかったのに……」
バージルはキリエの言葉に、わずかに視線を揺らす。
彼女は、母親を知らずに育ったネロにとって、確かに大切な存在なのだろう。
そして──彼にとっても、きっとかけがえのない存在になるのだろう。
バージルはゆっくりとキリエに向き直ると、不器用ながらも真摯に言葉を紡いだ。
「……息子を頼む」
そう言って、バージルは小さく頭を下げた。
ネロが驚いたように目を見開く。
キリエもまた、バージルのその仕草に驚きを隠せなかったが、すぐに穏やかな笑みを浮かべ、静かに頷いた。
「はい……もちろんです」
バージルは顔を上げると、何も言わずに背を向ける。
「親父……」
ネロが呼びかける。
バージルは一度だけ振り返り、目を細めた。
「また来る」
それは、約束のようなものだった。
言葉を交わすのは、それだけで十分だった。
そしてバージルは、青いコートを翻し、静かにフォルトゥナを去っていった。
その背中を、ネロとキリエは黙って見送った。
フォルトゥナの空は高く、穏やかだった。