第8章 そして彼女に追いつく
古書店スパーダの中に、バージルはひとり佇んでいた。
すでに幻影は消え去り、扉の隙間から差し込む月明かりが、本棚の影を長く伸ばしている。
空間は静寂に包まれていた。
何も聞こえない。
だが、バージルの頭の中には、あの女の声が今も残響していた。
『本当は好きだったんだ、って』
ビアンカは、そう言って消えた。
バージルは、天井を仰ぐようにゆっくりと目を閉じた。
──愛していたのか?
そう問われれば、答えは限りなく否に近い。
彼が求めていたのは力だった。
人間的な感情に囚われることなど無意味だと、ずっとそう考えていた。
だから、彼女に惹かれたことはないし、彼女を求めたこともなかった。
あの夜、彼女と関係を持ったのは、ほんの気まぐれか、あるいは単なる興味だったのかもしれない。
だが──
彼女は、自分を愛していた。
そして、愛したがゆえに、息子を命がけで守った。
それを知ったとき、バージルの胸の内に、理解しがたい感情がわき起こった。
それは後悔ではない。
ましてや悲しみや寂しさでもない。
だが、確かに胸の奥をかすめる、何か。
それが何なのか、彼はまだうまく言葉にできなかった。
「……くだらん」
バージルは小さく吐き捨てる。
だが、否定しようとしても、その感情は消えなかった。
ふと、彼はカウンターに目をやる。
そこには、使いかけのウィスキーのボトルがあった。
手に取る。
瓶を傾けると、ほんの少しだけ、中身が残っていた。
『乾杯しようよ、バージル。たまにはそういうのもいいだろう?』
かつてのビアンカの言葉が、ふと脳裏をよぎる。
「……貴様に付き合う気はなかった」
誰にともなく呟く。
だが、彼はコートの襟元を緩めると、ボトルの口を直接傾けた。
ウィスキーの強い香りとともに、喉の奥を焼くような熱が広がる。
カチン
空になったボトルをカウンターに戻すと、バージルは静かに立ち上がった。
「……オレは、もう行くからな」
誰に向けたわけでもない言葉を落とし、彼は夜のフォルトゥナへと歩き出した。
月の光だけが、彼の背を静かに照らしていた。