第5章 母の痕跡
バージルはビアンカと共寝した時の事までを話すつもりもなかった。ネロからしてもそんな生々しい事は知りたくもないだろう。驚くべきことに未だ清い関係を貫いており、然るべき存在となるまでは大切にするとかたく誓っている青年に伝えたい事などなにもなかった。
「つまりアンタは、フォルトゥナを出て行った後の事は何も知らないわけだ」
「ああ。──確か、孤児院で育ったのだったか」
キリエやクレド達家族の一員になるまでの経緯もそれとなく関いてはいたが確認のように問う。バージルもまた幼い頃に母を喪ったわけだが、今なら鈍い痛みと共に振り返られる思い出が残されていた。
しかしネロはそうではない。生まれる前に父が去り、生まれてすぐに母も消えてしまった彼には、実の両親との記憶がない。全ての子が与えられるべき「名前」すらも、親ではなく孤児院のシスターが与えたものだという。
「そうだよ、孤児院の前に置き去りにされてたって。黒っぽい布にくるまれてたから、それがオレの名前になった」
耳障りな断末魔と共にスケアクロウが塵になって消えていく。眉一つ動かさず、神経を研ぎ澄きないと見逃してしまいそうな速度で居合い斬りを放った聞魔刀がカチリと音を立てて鞘へと納まるのを視界に捉えつつネロはそう答えた。
ネロ。それはイタリア語で黒を表す。安易で、縁起が良いと思えない名前だが、魔剣士を崇拝するような街だから特有の文化や感性に基いているのかもしれない。
「一帯の穴は塞いだ。帰るぞ」
バージルはネロの言葉にそれ程大きな反応も見せず、さっさときびすを返してしまう。青年はやれやれと軽く首を振った後その後を追うのだった。