第8章 幸せなひととき
といっても、学校と公園と自宅しかない箱庭世界に、他に出掛けるところもないのだけれど。
イケメンカシタローさんの手を引かれて箱庭をのんびりと散策する。それだけで幸せな時間だった。
ああ、このまま時が止まればいいのに!
しかし時間というのは残酷で、外が暗くなるとそろそろ帰ろうかと言われ。残念な気持ちのまま帰ると、また明日も出掛けようとカシタローさんに言ってもらって。違うのだ。私は今この瞬間を大事にしたいのだ。この瞬間はきっと明日も明後日でも、同じ日はこないのだから。
「ただいま〜」
誰もいない自宅に、カシタローさんと一緒にただいまを言って帰って来た。ドレスはもったいないから、帰ったらすぐに普段着に着替えてハンガーに掛けて置く。こうして見ると、本当に花嫁さんが着るドレスみたいだ。
「鼻歌、素敵だね」
「えっ」
カシタローさんに言われて私はびっくりする。私、鼻歌なんて歌ってた……?
「へへ、今日はとっても楽しくて歌ってたみたいです」
鼻歌の話されるとちょっと恥ずかしかったけど、カシタローさんに褒められるのは嬉しかった。今思い出したが、私さっきまで歌詞太郎さんの鼻歌をうたっていたんだった。
「歌詞太郎さんの歌です。私本当に好きで……」
「カシタロウ? 僕のこと?」
つい話してしまった。私は一瞬で後悔した。
そうか。目の前にいるカシタローさんはただのアバターで、伊東歌詞太郎さんではないのだ。歌詞太郎さんに似せた、ただのゲーム上のキャラクターなだけで。
「ごめん、歌ってる人の名前忘れちゃったな〜、ついカシタローさんの名前を言っちゃった」
咄嗟に繕った言葉に、カシタローさんは何かに勘づく様子なく、そっか、と受け答える。カシタローさんは気にしないだろう。だってゲームのキャラクターなんだもの。気にするのは、私だけだ。
「私、先にシャワーに行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
私は逃げるようにシャワー室へ向かう。揺れ動く心に、私はどうしたらいいか分からなかった。