第5章 5(夏油視点)
「いや…笑えないな」
袖の中から隠していたハンドクリームのチューブを取り出し、蓋を開ける。
ジェル状の中身を手の甲に出して全体に纏わせる。
爽やかで清々しいミントの香りと少しだけひんやりとした塗心地が甘く痺れるような記憶を蘇らせる。
「名前…」
目元を隠すように手の甲を乗せ、恋しい女性(ひと)の名を呟く。
鼻孔を擽る香りは名前が愛用していたハンドクリームの香り。
高専と決別してから手放せなくなった。
非術師の作った物は出来るだけ遠ざけているが、これだけは別だ。
「私はどうしたらいい?」
閉じた瞼の裏に名前との記憶が広がる。
攫うと決めたが、何をどうしても名前を苦しめ悲しませる結果にしかならない。
名前を悲しませるという事は私自身が苦しみ傷付くという意味だ。
自分の首を自分で締めてどうする。
「…んっ…」
ミントの香りに思考が痺れてゆく…
名前の甘く柔らかな唇の感触が生々しく蘇り、胸が締め付けられる。
そっと触れて、優しく何度も啄む。
繰り返し…繰り返し…
名前の唇が私の唾液で濡れるまで…
欲望を抑え込みながら甘い口付けで酔わせる。
しっとりと濡れた唇は名前の唾液で濡れた私の唇に貼りつき、ゆっくりと剥がれるように離れてゆく。
そのゾクゾクするような感覚が名残惜しくて何度も何度も啄んだ。
熱い吐息も喘ぐように漏れる声も全て飲み込むように…
私の腹の中には悍ましい呪霊が数え切れないほど蠢いている。
私の唇は吐瀉物を処理した雑巾を毎日のように取り込んでいるのと変わらない。
汚物に触れている唇と呪霊の蠢く体内から漏れる吐息…
私は名前を汚していると気付いてしまった。
“キスして…夏油君”
それを知った名前が私にそっと口付け、言ってくれた言葉。
名前にキスを強請られたのはあの時が最初で最後。
記憶の中の甘い口付けが私を狂わせる。
もう一度名前に溺れたい…