第9章 9
本当は分かってた。
でも怖くて気付かないようにしていた。
臭い物に蓋をするように、無視してきた。
だから彼の姿を見た瞬間から夏油傑という人間を否定しようと必死だった、
でも私には無理だった。
「私は好きでもない女性と触れ合える程器用じゃないよ」
「…写真…撮るんだよね?」
顔を上げて涙でグチャグチャになった目で夏油君と向き合う。
素直な気持ちで見た彼は年上の男性みたいに大人で、完全に手の届かない存在になってしまった。
「そうだったね」
ずっと夏油君が好きだった。
誰にも言えなかった。
最初に気付いてくれたのは夏油君だった。
誰も知らない私と夏油君の出会い…
誰も知らない私と夏油君の時間…
私達2人しか知らない幸せな思い出…
一瞬で壊れてしまった。
夏油君が自ら選択して壊した。
最初から私と夏油君は違う世界にいて、見えないガラスの壁で遮られていた。
壁など無いと思っていたのは私だけだった。
全ては錯覚だった。
「夏油君…素っ気ない態度とってごめんね」
「素っ気なくないさ…名前は優しいよ」
「うっ…ぐすっ…夏油君」
名前を声に出して呼べるだけで幸せ。
私が彼の名を呼ぶ事すらあの頃は誰も納得しなかった。
そして今は彼の名そのものがタブーとなった。
誰もその名を口にしたがらない。
心の中でしか呼べなくなってしまった。
「名前、撮るよ」
「うん」
さり気なく慣れた仕草で肩を抱き寄せられる。
夏油君が左手にデジカメを持って自撮りの要領で私たちの姿をフレームに収めた。
何度かシャッター音がして、夏油君が撮った写真を“どうかな?”なんて言いながら見せくれる。
2人で画面を覗き込みめば、そこには泣きはらしたみっともない顔の私と、お手本のような笑顔の夏油君が写っていた。
「無理に笑わなくていいよ」
その言葉を聞いた瞬間、止まった筈の涙が一気に溢れ出した。
夏油君に片腕で優しく抱き寄せられ、そのまま彼に身を委ねる。
「ごめんなさい」
「名前、私の目を見て」
「…うん」
私に目線を合わせるように夏油君が顔を覗き込んでくる。
切れ長の黒い瞳に至近距離から見詰められ、“コツン”と優しくおでこが押し当てられた。