第1章 禍根【江戸後期:鬼舞辻無惨】
紗枝が私の与えた条件を呑んで共に暮らし始めてから、屋敷の静寂は以前とは異なるものになった。彼女は時折、庭でまだ咲きもしない百合の手入れしながら、物憂げな表情で空を見上げることがある。それが、私の心の奥底に眠る、不愉快な何かを呼び起こす。
「……何を見ている」
屋敷の奥の日の当たらぬ場所から庭に立つ彼女に声をかける。振り返る彼女の目は、やはり感情を伴わない。しかし、その奥に潜む、夫への思慕と私への怒りは、私には見えている。それが、私の愉悦をより一層強固にする。
「なんでもございません」
簡潔な言葉。私に多くを語るつもりはないらしい。その態度は、私を恐れず、むしろ対等であろうとしているかのようだった。それが気に食わない。しかし、その反抗心こそが、彼女を退屈な人間とは異なる「玩具」たらしめている。
しかし、ここに連れてくる前の悲痛に歪んだ表情をあれ以来見ていない。
少しずつ
少しずつ
情報を与えて、希望など与えず絶望のみを与えて壊して…
そろそろ最初の絶望を与えていい頃合いだ。
「貴様はどこまで、夫の情報を知っている」
温度のない無機質な視線がこちらを捉えた。
こちらの意図を探ろうとしてか、すこしの沈黙を置いて、ゆっくりと話し始めた。
「瞳を見れるほど近くに行った者はおらず、ただ、最後の姿のまま、人を喰らう後ろ姿しか見ていないと…。
関係者の方々からいくつかの目撃情報を得ているだけで、強さも何も、夫が鬼になって人を喰らっているという情報しかございません」
「その男の名は、”若松 清史郎”で間違いないか?」
よそを向き始めていた視線がその名を聞いて憎悪の色を濃くした。
「やはり…鬼になっていたのですね」
「あぁ。そうだ。人を沢山食わせた。最後に私から人間を助けた後でな。
それは旨そうに食っていたぞ」
「そんなはずあるものか!!」
紗枝はまた、私に憎しみの怒声を浴びせた。
怒りにわなわなと震えて、敵いもしないのにこちらにつかみかかる勢いだ。
「ほんの最初だけだ。鬼の本能に抗っていたのはな。
最初はそれこそ、えづきながら食べていたぞ」
その眼に溜まり始めた涙は、私への怒りと憎しみ、夫への想いも表している。
小さな声で「よくも…よくも…」と呟いている。
「だが、次第に目の色を変えて沢山の人間を喰らっていたな」
