第1章 禍根【江戸後期:鬼舞辻無惨】
耳元で囁いてやる。
彼女の体は、ただ震えるだけで、一切の抵抗を示さなかった。
その姿は、まるで魂を抜き取られた人形のようだった。
私は、彼女が完全に絶望したと確信し、満足した。
牙羅が紗枝の夫の面影を完全に失っていることを目の当たりにして、疑っていた私の言葉を、最後の希望を打ち砕かれたからであろう。
屋敷に帰ってからも、されるがまま。
横抱きにして移動しても抵抗すらせず、焦点の定まらない視線は何も捉えていない。
ただただ横たわり、呆然と窓の外を見つめるだけ。
「見たであろう。その眼ではっきりと…。これで理解しただろう。
貴様の夫は、今も私の血の呪いによって支配されている。そして、貴様もまた、私の手枷と足枷によって、永遠に私のものなのだ」
そう言って、眠りについた紗枝の頬を、そっと撫でた。
手が微かに震えて止まらない。ようやく手に入れた彼女の魂に触れられたという喜びからだろうか。
翌日、紗枝の食事を運んだ時、彼女は私と目を合わせなかった。
身動きすらしない。
ただ、その瞳は、以前のような憎悪でも、絶望でもなく、ただ冷たい虚無をたたえていた。私は、彼女の心がとうとう壊れたと確信し、満足した。
その細くなった腕に余る手枷だけを取り、移動手段にならない手だけを自由にしてやる。
しかし、その日の夜から、紗枝は再び自分の意思で食事を口にするようになった。
驚いたのは私の方だった。
彼女は、私の監視下で、少しずつ、しかし着実に体力を回復させていった。彼女の瞳は虚ろなままだったが、その行動は理に適っている。まるで、生きるという行為を、ただの作業としてこなしているかのようだった。
私は、彼女がなぜ生きる気力を取り戻したのか、理解に苦しんだ。
その夜、私が寝室に戻ると、紗枝はベッドに座ったまま、静かに私を待っていた。足枷をつけられたままの彼女は、しかし、どこか雰囲気が違っていた。恐怖も、絶望も、憎悪すらも感じられない。ただ、笑みを浮かべているというのに底冷えするような静けさだけが、彼女を包み込んでいた。
「どうしました、あなた様」
その声は、かつての淡々とした響きとは異なる、静かな狂気を帯びていた。私は、背筋が凍るような感覚を覚えた。