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七十二候

第30章 天地始粛(てんちはじめてさむし)


「萌」

 そんなことを考えていたら、徹が音楽室に前に立っていた。もうバレー部の練習が終わる時間だった。
「惜しかったね」
「徹……うん。惜しかった」
「でもいい演奏したんだろ?胸張って帰るんだろ?」
「聞いてたの? ……みんなは胸張って帰るべきだから」
「部長挨拶ときの萌、かっこよかったよ。そして掃除をして出ていくのも、めちゃくちゃかっこいいよ」
「そう? 照れるな……」
 私はそう言いかけて、言葉が詰まった。

「………………悔しい……」
 自然に言葉が出てきた。言葉にしたことでせき止めていた感情の我慢がきかなくなり、徹の言葉で心の扉がこじ開けられた。涙が止まらなくなり、声を出して泣いた。
 両手で顔を覆って肩を震わせながら泣いていた。
 その刹那、気が付くと私は徹に抱きしめられてた。

 一瞬、何が起こったのか分からなかったけど、徐々に徹に抱きしめられていることを自覚した。
 すっかりこの時期のこの時間帯は涼しくなっていたからか、徹の温かさが心地よくて、温もりと優しさに包み込まれて安心した気がした。人前では隠さなくてはいけなかったこの気持ちを許してもらえる気がした。
 大泣きする私を徹はずっと黙って抱きしめてくれた。
「胸張って帰るんだろ? ここで思いっきり泣いておきな」
「ひっ……うぅ…… くや、しい……」
「ん。人前で泣かなかったんだろ? 本当かっこいいよ。偉かったな」

 徹の温もりで心が溶けていくのが分かった。

 しばらく声を上あげて泣き続けつつ、頭の中では少しずつ理性を取り戻す。そして私は演奏の何がいけなかったのか整理していく。
「……単純に、気持ちを、乗せて吹いたって……相手には……つたわらな、い」
「表現にだって技術がいるって知ってたのに、気づいてたのに、まだできることがあったのに……わぁぁぁん……!」
 人の心を動かす音楽はただ気持ちを乗せて吹くだけじゃ相手には伝わらない。確固たる技術と音楽性があるから人の心を動かすんだ。
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