• テキストサイズ

七十二候

第26章 涼風至(すづかぜいたる)


 夏休みのある日、部活がない日を利用して東京へレッスンを受けに行った。今一緒に仕事をしている大窪先生との出会いはこのときだ。月に数回は秋田先生にレッスンを受けていたが、実は大窪先生にも興味があった。
 基礎の練習と吹奏楽コンクールのソロを見てもらった。ありがたいことに芸大受験に向けて、聴音という和声や旋律の書き取り試験の先生を紹介してもらった。地元の方でも習ってはいるが、大窪先生の紹介とあらば、ぜひ受講したい。
「雨宮さんがプロになって、いつか一緒にお仕事ができる日を楽しみにしていますね」
「そうなれたら嬉しいです。ありがとうございました」
 そう言ってしばしの別れとなった。本当にそれが実現するとは、このときの私にはまだ予想もつかなかった。
 その後その足で当時東京に単身赴任をしていた父に会いに行った。仕事が終わる頃に新宿の南口改札で待ち合わせをする。どこを見回しても人、人、人。東京ってやっぱりすごいな。暑い中動き回る人たちを眺めて感心していた。
 仕事が長引いているのか、父は少し遅れるということなので、南口のファッションビルで洋服を見ることにした。ビル内は涼しいし快適だ。そうして時間を潰していたら、やがて父が小走りで来てくれた。会うのはお正月以来だ。そこまで変わりはないように見えた。
 暑いのに走ったせいで、汗をかいた父はワイシャツ首元に空気を送りながら、「萌育ったなー」と言った。何が?と思ったけど、横にだろうか。縦であってほしい。
 待たせたから、と父にちゃっかり洋服を買ってもらったあと、予約しているお店がある、と近くのイタリアンに連れて行ってくれた。
 新宿の喧騒から離れたオシャレで静かなお店だった。冷たいカプリッチョに舌鼓を打つ。
「美味しいー!」
「はは、よかった。レッスンはどうだった?」白ワインを飲みながら父は聞いた。
「先生の音が素敵すぎたよ。表現について教わったことが一番印象的だった。間とか、音を出す前の空気感とか。あと吹奏楽コンクールのソロは攻撃的な曲なんだけど、やっぱり自分の殻を破らないと……。手っ取り早くそれっぽく吹けるように、クラリネットの仕掛けを見てもらったよ」
「まー、そういうのはたくさんの人生経験をして大人になって身に付くものもあるしな。焦らなくていいよ」
/ 234ページ  
スマホ、携帯も対応しています
当サイトの夢小説は、お手元のスマートフォンや携帯電話でも読むことが可能です。
アドレスはそのまま

http://dream-novel.jp

スマホ、携帯も対応しています!QRコード

©dream-novel.jp