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七十二候

第84章 及川編#9


 それに、マエダクンはしゃべると面白い。そのギャップはずるい。
「前田くんか……」
 萌の大好きなブラームス。ブラームスオタクの前田くん。息の合った演奏。
 楽しそうに演奏する萌……。

 萌のいるべき場所は、ここなのかもしれない。
 ふと、思った。妙に腑に落ちた。
 突然涙がこぼれた。それは、答えを見つけたからなのか、萌の演奏を聴いたからなのか。萌への思慕のせいなのか。ぐちゃぐちゃな感情の中、見えた一筋の答え。これは否定すべきなのか。抗うべきなのか……。
「萌の楽しそうに音楽をしている姿、好きなんだよなぁ……」掠れた声で独り言を漏らした。

 終演後、萌と少しの間電話をした。
「トークも上手かったし、ベテランみたいだった。かっこよかった!」
「ありがとう。静寂に耐えられなくて。コンクールじゃないし、お客さんにはもっとリラックスして欲しいなと思ったら、つい口から出てた」
 萌は声色からしてやり切ったようだった。清々しい気持ちなのがよく分かる。本当に良かった。
「女優だったでしょ」
「そうだな、今日だけは名女優と認めよう。それにしても前田くんの顔を始めて見たけど結構かっこいいんだな」
「ブラームスオタクだけど爽やかな好青年でいい人!」
 萌が前田くんをべた褒めする。萌の言葉に他意はないのは分かっているけど、やっぱり面白くはなかった。
「えー俺より?」
「徹はイケメンだし好青年っぽいけど、全部計算していそう」
「ねぇどういうこと! 基本的に素直な青年だよ!」
「そうだね、だから大人げないんだね」
「正直か!」
 計算くらいするさ。前田くんだってきっとしている。素直で純粋なのは萌のほう。
 
「徹。歩みは遅いけど、私がもっとプロとして力をつけたら……」
萌は何か意を決したように、言った。
「ううん、今は堅苦しいのはいいよ。ほら、打ち上げでしょ? 行っておいで。あ、花柄のドレス可愛かったよ」
 俺はあえてその話を避けた。今この話をしたって、いいことはない。ややもすると、別れを切り出してしまいそうだった。
「衣装は可愛いよね衣装は」萌は冗談交じりで拗ねていた。本当に、呑気なやつだ。
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