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七十二候

第8章 蛙始鳴(かわずはじめてなく)


 ある日、ちょっとだけ早め……と言っても18時半は過ぎていたけど、居残り練習を終えて帰ろうとすると下駄箱で声をかけられた。
「よ。萌。帰ろうぜ」
「岩ちゃん! 徹は?」
「あいつは置いてきた。花巻たちに片付けと及川の面倒は任せた」
「そっか。久しぶりだね。よく帰るタイミングが分かったね」
「そうだな。音楽室の電気が消えたから、あー帰るのかなって思って」
 さすが岩ちゃん……。私を待ち構えていたのか。これは私に用事がある、ということだ。
「えー。なんかご用?」
 私は首を傾げてとぼけながら言ってみる。
「大ありだよ。鈍感」
 そう言って岩ちゃんは私の頭をコツンと優しく叩いた。
「……徹を避けてるの分かる?」
 鈍感の意味は何だろうと思いつつ、そこには触れずに質問する。
「分かるわ。萌のことだからあれだろ。及川に近づいたら彼女に悪いとかそんなこと思ったんだろ」
「ご名答……。余計な気を回しすぎたかな」
 私は極力明るく振る舞って、声を高めにして返答してみせた。
「及川、少し気にしてたぞ。萌が避けてる……って。当たり前だろボケと言っておいた」
「やー、そうだよね? だって私、ただでさえ徹のそばにいると嫉妬されやすいんだよ?」
「女って怖いよなー。まぁ、さ、幼馴染までは辞めないでやってよ」
 徹とは必要なときにはちゃんとコミュニケーションを取っているつもりなんだけどな、と思いつつ、「うん」と歯切れ悪く答える。でも、徹がどんな女の子と付き合っていたって関係ない。それはそうなのだ。私は幼馴染であって、それ以上でも以下でもない。
「徹が女の子にヘラヘラしてるのが昔からだしね! 明日は多めに話しかけてみるよ」
「おう、あいつも喜ぶよ」
「岩ちゃん」
「ん?」
「ありがと」
「おう」
 岩ちゃんは徹や私の面倒を見てくれるお兄ちゃんのようなお父さんのような、頼もしい幼馴染だ。こういう人と付き合ったら幸せになれるんだろうなと思った。誰かに岩ちゃんを紹介して、と言われたら私が太鼓判を押して紹介してあげたいくらいだ。
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