第74章 七十二候
「じゃあ、しょうがないな」
徹は身体を屈めて、わたしに優しくキスをした。
「……いつまでも慣れない……徹が近いの」
「うそっ。慣れてよ! こんなんじゃ足りないよ。7年半も離れていたんだよ?」
サンフアンは東京とは対照的だ。高い建物はないし、目立ったものもない。綺麗に舗装された場所もあるけど、基本的には古い建物ですっきりした街並み。あるのは広大な自然と美味しいワイン。都会で便利な生活を送っていた私が、この生活に慣れるのはまだまだ先だろう。まず言語も季節もすべてが逆なのだから。
現在、私はスペイン語と英語を一生懸命習得中だ。英語は留学経験もあり、最低限の会話はできるようになってはいたが、それもまだ足りない。徹は既にチームメイトと会話するための英語も、アルゼンチンで生活するためのスペイン語もしっかり話せるようになっていた。
「今度さ、ライブハウスで演奏することになったの」
夕食を食べながら私は報告した。なるべく生まれ育った日本の身体に合った和食を取り入れつつ、アルゼンチンの文化を学ぼうとアルゼンチンの家庭料理を作ったりもする。今日はゆで卵や野菜を薄切りの牛肉で巻く、マタンブレを作ってみた。
「え? すごっ」
「この前のライブハウスがきっかけで」
少し前、徹と出かけてみた地元のライブハウスで飛び込みで演奏をする機会があり、日本のアニソンを歌ったら、お客さんたちが盛り上がってくれた。その後、私がクラリネット奏者であることを打ち明けたところ、とんとん拍子にソロライブをすることが決まった。日本のアニメが世界で人気であることを実感した。
「萌は相変わらず歌も上手いもんね。すっかりアルゼンチンで音楽をしていて、適応の早さがすごいよ」
「ありがと。でも徹のおかげだよ。きっかけの入口は歌でも、クラリネットのファンを増やしたいな」