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七十二候

第65章 土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)


 バレンタインはとうに過ぎていた。毎年欠かさなかった自分へのチョコレートを買うことを忘れるほど、仕事に作曲に忙殺していた。忙殺していた方が気持ちは楽だった。
 徹とは約束通り何の連絡も取っていなかったが、バレーの試合結果を覗いてみては一喜一憂していた。
 最近は、アップロードしていた動画を英語でも表記するようにしてみた。だけど動画の編集技術がイマイチな気がしていて、動画編集が得意だというまゆの家へお邪魔し、教えてもらうことにした。まゆは絵も上手い。魅せることが得意だった。

「おおっ! お腹おっきくなってる!」
「ねー。最近はマタニティヨガに通ったりして身体を動かしてるんだよ」
「毎日大変そうだねぇ。ピアノは?」
「弾いてるよー。お腹の子にも聴かせてるの」
 私はまゆのお腹を撫でさせてもらった。思いの外硬かった。ずっしりとしたこの膨らみの中に小さな命があるのは不思議な気持ちがした。好きな人との間に命を授かることの神秘さを感じずにはいられなかった。
 
 一通り動画編集のアドバイスを貰い、話題は徹のことになる。最近、いろんな人に説明している気がする。
「萌がすごいのは、それだけ実力があっても驕らないところ。謙虚と自信がないのは違うけどさ、萌はどっちもだよね。自信もないように見える」
「上には上がいるんだもの。自信満々とはいかないよ」
「だけど、クラリネット一本で頑張ると思いきや、動画で世界にポップスもクラシックも発信してみたり、作曲してみたりって、意外と雑食だよね」
「そうかな。そうか……多くの人に見てもらいたいからね」
「萌のクラリネットを知ってもらいたいから? 喜んでもらいたい?」
「うん、どっちもだと思う」

「じゃあさ、もう動画では世界発信しているのに、なんで海外で暮らすのを躊躇するの? 怖いの? 徹くんがいるのに」
 はっとした。火花が弾けたような感覚。核心に迫られた気がした。
 未知の地とはいえ、隣には頼もしい人がいてくれるのに。私はなぜ恐れていたのか。まゆの何気ない疑問を、私はなぜ疑問にしてこなかったのだろう。
「ほんとだ。何を怖がってたんだろう。まゆ、ありがとう!」
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