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七十二候

第63章 黄鶯睍睆(うぐいすなく)


 風邪をひいた。やむ無く練習をキャンセルし、3日間家に籠っていた。食欲もなければ咳も止まらないので、楽器を吹ける状態ではなく、身体中が凍り付くような悪寒にも苦しんだ。
 辛くても、徹には連絡はしない。私はひとり、この与えられた休みを作曲の時間に宛てた。辛くても、やらなくてはならなかった。
 徹との会話を経て、曲を変更しなくては、という思いに駆られた。四季の美しさや綺麗な思い出ばかりを表現しようと思っていたが、1年はもっと複雑に変化し、思い出は美しいだけではないということに気が付いた。良いことも悪いことも、楽しいことも辛いことも交互に訪れる。そんな先に幸せを見つけられたらどんなに幸福なことだろう。そんな私の想いを形にするために、正直に音楽を表現したかった。
 寝るのにも飽きていた。厚着だけでは足りず、毛布を被ってパソコンで作業をする。体調は悪くても、不思議と筆が進んだ。
 
 こんな形で進めてもいいかと、途中段階の曲をAKIに送った。AKIはすでにアメリカに渡っている。バタバタしていて大変だろうと思っていたが、返信はすぐにあった。
「いいと思う! より具合的になって、萌ちゃんが伝えたいものが見えてきたね。ここの割り切れない連符とか、解決しない和声とか、複雑に絡み合っているのがいいね」
「結果的に指定の細かい難しい曲になってしまいそうだよ……吹くのは私だからいいんだけどさ」
「そっか。なんかあった?」
 女の勘だろうか。AKIは探偵のように鋭い。
「彼氏といろいろあって、この曲を完成させるまでにこれからどうするか結論を出すことにしたの。いい加減、一区切りつけたい」
 私はこれまでの経緯をAKIに話した。元々桜の時期に曲を完成させたかっただけなのだが、結果、この曲は徹に対する答えの期日と重なった。
「なるほど、だからこの曲を彼氏に贈るってことだね? 萌ちゃんが感じた彼氏と過ごした日々を綺麗だけでは表現しきれない、清濁併せ呑むようなたくさんの思い出を乗せて、その先にどんなメッセージを贈るの?」
「それは……まだ分からない」
「それだな! メッセージを決めたら自ずと全て決まるよ」
 AKIは作曲家として、音楽家としてその嗅覚の鋭さや論理的な思考に圧倒される。譜面から私の心の奥底を読んでいるかのようだった。
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